現代 アフリカ・イスラーム世界 【マフディー運動が激化した】

スーダンムハンマド・アフマドがマフディー(神に正しく導かれた者)を自称したのは1881年であった。「エジプト人のエジプト」を掲げたアラービー運動が起きた年であり、イスラーム暦(ヒジュラ歴)では13世紀末にあたっていた。イスラーム世界では、前世紀からのワッハーブ派の運動やネオ・スーフィズム、当時広がりつつあったアフガーニーの汎イスラーム主義などの改革運動と終末論的なマフディー待望とが入り混じっていたのである。
 マフディーは、ウラマーイスラーム法学者)やスーフィーイスラーム神秘主義者)とは異なる存在で、初期にはムハンマドを指した。シーア派では、イマーム(アリーの血を引く最高指導者)と重なって考えられている。スンナ派では、民衆的宗教運動の中で登場すると理解されていた。イブン・ハルドゥーンも、14世紀の『歴史序説』で、末世にムハンマドの家系からマフディーが現れると述べている。ムハンマドの家系であることは、預言者の美徳を受け継ぐ者として、重要視されたのである。
 スーダンでは、16世紀前半王がイスラームに改宗し、次第に民衆にも浸透していった。文字を読めない民衆のイスラーム信仰が病気治癒などの現世利益として広がったことは、興味深い。19世紀には、西アフリカからスーダン・エジプトにかけて、民衆の中にマフディー待望の心情が広まっていた。そのような中で、ムハンマド・アフマド(1844〜85)が、北部スーダン(紀元前にはクシュ王国のメロエがあった付近)で、ムハンマドの家系に生まれたのである。クルアーン学校兼スーフィー修行所で教育を受け、早くから旺盛な知識欲と正義感の強さで知られたという。そしてマフディーを名乗り、スーダンを支配していたエジプト軍を破ったのであった。
 ムハンマド・アフマドらは、まもなくアラービーの反乱を鎮圧してエジプトを支配したイギリス軍と戦うことになった。1885年には、スーダン総督であったゴードンを殺害して、マフディー国家を建設した。しかし、その半年後ムハンマド・アフマドは病死してしまう。ムハンマド・アフマドの後継者たち(初期イスラームを想起させるカリフが選ばれていた)は、1899年まで抵抗を続けたが、とうとうイギリス軍に敗れた。この時、イギリスのキッチナー将軍は、ゴードン将軍殺害の張本人としてのムハンマド・アフマドの墓をあばき、灰を川に投げ捨てたのだった。
 マフディー国家は脆弱であった。しかし、時代錯誤的な千年王国と笑うことはできないだろう。ムハンマド・アフマドは、民衆の救済願望に応えようとした、19世紀末イスラームの優れた知識人であり、政治家であり、軍事指導者であった。ちょうど、ヨーロッパ諸国のアフリカ侵略が苛烈を極めた時代に、スーダンの正義を一身に担ったのである。

《参考文献》
 山内昌之『近代イスラームの挑戦』(中央公論社版世界の歴史20)
 福井勝義、大塚和夫、赤坂賢『アフリカの民族と社会』(中央公論社版世界の歴史24)
 小杉泰ほか編『イスラーム辞典』(岩波書店

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