近代 ヨーロッパ 【「マジャールの魂」】

■1848年、パリの二月革命は、瞬く間にヨーロッパ中に波及した。ウィーンでもベルリンでも三月革命が起こった。
 3月13日、学生・市民・手工業者たちは議事堂に乱入して軍隊と衝突、群衆は王宮を取り囲んだ。14日にはメッテルニヒがロンドンに亡命し、ウィーン体制は崩壊した。オーストリア継承戦争終結から、ちょうど100年目であった。フランス革命ナポレオン戦争を経て、時代は大きく変わっていたのである。

 この時、ハンガリーの青年たちのサークルが出した要求書は、「出版の自由、検閲の廃止、法の下での平等、農奴制の廃止」などと並んで、ハンガリーの政治的・経済的自立を訴えていた。要求書の最後には「平等、自由、友愛!」と記されていた。さらに急進派のコシュートらは、翌49年、オーストリアからのハンガリーの独立を宣言するに至った。しかし、ロシアからの援軍もあり(神聖同盟が機能した)、独立運動は鎮圧される。コシュートはトルコに逃れ、その後アメリカ、イギリス、イタリアと亡命生活を送った。今日までコシュートは、「マジャールの魂」を代表する政治家として、ハンガリーでは親しまれてきた。

 だが、「マジャールの魂」は大きな矛盾を抱えていた。ハンガリーに従属していたクロアチア人が「ハンガリーと同等の独立」を求めたのに対し、コシュートはこれを排斥したのである。また、マジャール人ハンガリー内部のルーマニア人やセルビア人との対立も激化した。のちにコシュートは48年当時の思想を転換し、イタリアで「ドナウ連邦構想」を発表した(1862)。連邦国家によって諸民族の共生を図ろうとしたこの構想が実現することはなかったが、民族的抗争の絶えないこの地域で、しばしば思い起こされることになった。

 この民族問題は、1867年のアウスグライヒ(妥協)によるオーストリアハンガリー二重君主国の成立によっても、解決されなかった。ハンガリーはようやくオーストリアと同等の関係を築くことに成功したが、クロアチア人、セルビア人、ルーマニア人、スロヴァキア人などの民族的要求に応えることはなかったのである。また、オーストリアハンガリー二重君主国には、多くのユダヤ人が居住していた(キリスト教に改宗したユダヤ人も多かった)。ハプスブルクと結びついたマジャール人の地主貴族層、多くはない中産階級(ドイツ人とユダヤ人が中心)・中小の商工業者、多数の貧しい農民というハンガリー社会に、さらに民族問題が影を落としていたのである。

 このようなアウスグライヒ下で、若者たちは焦燥感を持っていた。西欧の思想・芸術を吸収する中で、ハンガリーの矛盾に満ちた現実にぶつかっていた。しかしその現実は、貧血化した「マジャールの魂」や「マジャール化されたユダヤ性」を超える磁場ともなったのである。打ち消しがたい民族性と湧き上がる普遍性志向との葛藤の中から、夜空に輝く星のような人たちが輩出した。作曲家バルトーク、作曲家コダーイ、哲学者ルカーチ、経済人類学者カール・ポランニー、科学哲学者マイケル・ポランニー、芸術史家アーノルド・ハウザーなどである。これらの人たちは、いずれも1880年代から90年代にアウスグライヒ下のハンガリーで生まれ、世紀転換期に自らの芸術や思想を形成したのであった。

《参考文献》
 南塚信吾編『東欧の民族と文化』(彩流社
 小島亮『中欧史エッセンツィア』(風媒社)
 歴史学研究会編『世界史史料6』(岩波書店
 栗本慎一郎ブダペスト物語』(晶文社