中世 南アジア 【イスラーム政権の北インド支配とスーフィズム】

アフガニスタンに本拠をおいたガズナ朝・ゴール朝は、10世紀末から北インド侵入を繰り返した。これは、、イスラーム側はジハード(聖戦)と偶像破壊を掲げていたが、おもな目的は金銀財宝の略奪と奴隷獲得であった。ただ、パンジャーブ地方の領有をめぐる争いでもあり、11世紀半ばには、約半世紀、アフガニスタンのゴール朝とパンジャーブ地方ガズナ朝が併存していた。パンジャーブ支配は、イスラーム勢力の北インド進出の橋頭堡だったのである。
 この事態をインド側で見ると、北インドラージプート諸王権が異民族・異教徒の侵入に対して抵抗できなかったということになる。各地に分立していた諸王権とそれを支えていた特権的バラモン層およびクシャトリヤは、連合して異民族・異教徒に立ち向かうことができなかったのである。200年以上におよぶガズナ朝・ゴール朝の侵入は、デリーを都とする奴隷王朝の出現(1206)を準備するのに十分であった。奴隷王朝から始まる五つのイスラーム政権(デリー・スルタン朝)は、300年余りにわたって北インドを支配し、ムガル帝国にバトンタッチすることになる。イスラーム政権は、旧ヒンドゥー支配層に改宗を強制することなく、多くのヒンドゥー教徒を役人に登用した。旧ヒンドゥー支配層を利用しながら、地税収入を確保し権力を維持したのである。
 奴隷王朝の成立前後で見落とせないことが二つある。一つ目は、ベンガル地方のインド仏教最後の拠点ヴィクラマシラー寺院が破壊され、インド仏教が消滅したことである。二つ目は、ビハール地方からベンガル地方を占領したムスリム集団がアクバル時代まで半独立勢力だったことである。(この地方は、第二次世界大戦後東パキスタンとなり、のち現在のバングラデシュとなった。)
 デリー・スルタン朝の300年余りの間に、北インドムスリム人口は増加した。なぜ、多神教ヒンドゥー世界で一神教イスラームを信仰する人々が増えたのだろうか。イスラーム政権の司法を担ったウラマーたちが積極的な布教活動をしたという事実は、ほとんど見られない。最大の貢献をしたのは、スーフィーたちであった。スーフィズム(神との一体感を強調するイスラーム神秘主義)を唱道する聖者たちであった。
 スーフィーたちは、ハーンカーという道場を各地に設け、粗衣・粗食で修行に励んだ。この道場には、ヒンドゥー教徒やヨーガ行者が自由に出入りしていたという。インドの民衆にとって、スーフィーとヨーガ行者の区別は、ほとんどなかったのである。またスーフィズムは、ヒンドゥー教バクティ信仰(ヴィシュヌの化身であるラーマやクリシュナへの熱烈な信仰)と親和性を持っていた。難解な教義による布教ではなく、素朴な説話を通じて神秘体験を伝えていくという点で、両者は共通していた。さらに、有徳なスーフィーの墓廟への巡礼も、ヒンドゥーの民衆を惹きつけていった。カースト制度のもとで差別されてきた階層の人々が集団でイスラーム教に改宗していったのである。ナーナクが創始したスィク(シク)教も、バクティ信仰とスーフィズムの出会いの中から生まれ、カースト制度を批判した。
 イスラーム教の一定の浸透の影響は、言語にも表れた。ウルドゥー語の形成である。ヒンディー語に、ムスリムが持ち込んだペルシア語やアラビア語トルコ語の語彙が混ざった言語で、書く時にはペルシア文字を使う。また、音楽にもイスラーム教の影響があったことは、興味深い。スーフィーたちは、歌舞音曲を奨励したのである。インド古来の楽器のように思われているスィタール(シタール、ペルシア語で三弦を意味する)も、実は西アジア起源の楽器で、14世紀頃ムスリムによって北インドに広められた。

《参考文献》
 荒松雄『ヒンドゥー教イスラム教』(岩波新書
 佐藤正哲・中里成章・水島司『ムガル帝国から英領インドへ』(中央公論社版世界の歴史14)
 井上貴子「音楽と舞踊」(『世界の歴史と文化・インド』[新潮社]所収)