■アメリカ合衆国の光と影 [史料とコメント](その2)

アメリカ史を考えるための史料 Ⅵ〜Ⅺ>


Ⅵ ミシシッピ州憲法(1890)

第8条 207項 白人と黒人の子どもたちには、それぞれ人種によって分離された学校を設ける。

第14条 263項 白人が、黒人、白人と黒人の2分の1の混血、あるいは黒人の血が8分の1以上混じった者と結婚することを、違法かつ無効とする。

 【歴史学研究会編『世界史史料7』(岩波書店)より】

南北戦争(1861〜65)後の合衆国憲法修正で黒人奴隷制度が廃止されたにもかかわらず、南部各州では差別と隔離が進行しました。投票権さえ奪われました。これらの法令をジム・クロウと総称します。そして1896年、連邦最高裁判所判決は、南部各州の人種差別制度を認めたのです。

★きわめて重要な点ですが、19世紀末に、人種差別制度は再構築されたのでした。授業で取り上げる際も、シェア・クロッパー制だけでは十分ではないでしょう。

★その解決は、1950年代からの公民権運動を待たなければなりませんでした。

★なお、クー・クラックス・クランが組織されたのは、1868年でした。


Ⅶ 「自由の女神」像の台座に刻まれた詩(1903)

 汝[ヨーロッパ大陸]において倦み、貧しく、自由の息を求める者たちの群れを、汝の賑わいの岸辺に打ち捨てられし敗残の者たちを、嵐に追われた家なき者たちを、わがもとに送りつけよ。われは、黄金の扉のかたえに、わが灯を掲げよう。

 【有賀夏紀・油井大三郎編『アメリカの歴史 テーマで読む多文化社会の夢と現実』(有斐閣)より。一部表現を改めてあります。】

★詩人エマ・ラザルスの詩です。

★「自由の女神」像は、フランス人彫刻家 F.バルトルディによって造られました。1886年のことです。バルトルディの熱意にもかかわらず、当初アメリカ側の関心は低く、資金難が続き、完成まで10年がかかりました。

★ただ、米仏両政府の取り決めで造られたわけでなかったことは、重要に思われます。

★20世紀に入ってから、「世界中からの移民を歓迎する<自由の女神>」というイメージが形成されていきました。東欧・南欧からの移民が激増した時期以降のことです。そして、移民には、迫害を逃れたユダヤ人も含まれていました。詩人エマ・ラザルスもユダヤ人でした。

★ただ、当時「自由の女神」が迎えたのは、大西洋を渡ってくる移民たちだけだったのかも知れません。すでに1882年、排華移民法(中国人移民禁止法)が成立していたからです。そして、1924年には、日本からの移民も禁止されることになります。


Ⅷ 日系人の強制収容(1942)

<西海岸防衛司令部ドゥイット司令官からスティムソン陸軍長官への覚書>

 陸軍長官は、西部作戦地区の戦闘地域内に軍事地域を指定し、陸軍長官の裁量に基づいて、その地域からすべての日本人やすべての敵性外国人を排除する指令と権限を、管轄の軍当局が現実かつ潜在的サボタージュやスパイ、第5列[裏切り]の活動行うという疑いをかける理由のあるあらゆるその他の人間を排除する指令と権限を、大統領から獲得すること。

 【歴史学研究会編『世界史史料10』(岩波書店)より。一部表現を改めています。】

★このような要望をもとに、フランクリン・ローズヴェルト大統領は、大統領令を発して、日系アメリカ市民約12万人の強制収容を行いました。1942年2月19日のことですから、日米開戦後3カ月という時期でした。

★史料に「すべての敵性外国人」とありますが、ドイツ系市民、イタリア系の強制収容は行われませんでした。

★戦後40年近くたった1988年、連邦議会は強制収容を「戦時ヒステリーと人種差別にもとづく誤り」と認め、レーガン大統領(共和党)が正式に謝罪しました。


Ⅸ ピーター・G・ボルン「人間、ストレス、ベトナム」(1970)

 ベトナム戦争には、従来のあらゆる戦争にも共通して当てはまる面と、ベトナム戦争だけの特異な面とがある。ベトナム戦争における、アメリカの社会的反応を従来にくらべて変えさせる作用をしたもっとも重要な政策決定は、交代制である。これは、あらゆる兵士に対して12ヵ月間(海兵隊の場合は13ヵ月間)のベトナム勤務が終われば、アメリカ本国へ帰還させることを保証したものである。(中略)[戦闘が]アメリカへ帰還する日がやってくるまで感情的にも肉体的にも生き残ろうとする、各自のきわめて個人的な戦いになったということである。
 兵士にとって、身にふりかかる肉体的不快や危険に気をとられているうちは、道徳的な問題や政治的問題を考えることは意味をもたない。彼は、本国の戦争論議や政府の政策と自分のベトナム体験との矛盾など思いわずらうことなく、それを無視したりする。
(中略)
 彼は、ベトナム戦争の結末については大きな関心がなく、ベトナムを離れる日には、「自分の負担は終わった、ベトナムのことなどもう二度と考えたくない」という気持ちになる。

 【丸山静雄編『ベトナム戦争』(ドキュメント現代史14、平凡社)より。一部表現を改めてあります。】

★ボルンは精神医学者で、ベトナムに派遣された医学研究チームに参加し、戦争が個々の人間と社会に及ぼす影響を調査しました。史料は、その報告書の一節です。

ベトナム戦争(1965〜73)では、5万人以上のアメリカ兵が死亡しました。帰還した兵士たちのなかには、PTSDに苦しむ人たちが数多くいました。ベトナムの体験を忘れることはできなかったのです。

ベトナム戦争アメリカ社会に大きな傷跡を残しましたが、その後も、湾岸戦争(1991)、同時多発テロ(2001)→アフガニスタン攻撃(2001)、イラク戦争(2003)と、戦争・事件が続いてきました。

★なお、ベトナム戦争中、沖縄はB52戦略爆撃機の発進基地、ジャングル戦の訓練場となりました。アメリカの敗色が濃くなった1972年5月まで(太平洋戦争末期から27年間)、沖縄はアメリカ軍政下におかれていたのです。


Ⅹ シャーリー・チザム「今日のアメリカにおける黒人女性」(1974)

 ますます多くの黒人女性が、黒人解放運動で十分に貢献するには、まず女性として解放されることが重要だと感じるようになっています。黒人男性のみならず男たちは皆、と言ってまずければ、たいていの男たちは女たちを、背後に控えているのが義務で、家事をする人間というステレオタイプで見ています。女は料理をし、掃除をし、子供を産み、いっぽう栄光は、すべての男たちにとっておかれます(笑い)。
 黒人女性は公民権運動も、男性による抑圧の一つのありかただと指摘しています。いささかの例外はありますが、黒人女性が、闘争の前線で積極的な役割を担っていることはありません。コレッタ・キング[キング牧師の妻]とか、キャサリン・クリーヴァー[エルドリッジ・クリーヴァーの妻]、ベティ・シャボズ[マルコムXの妻]は、それぞれ夫の威光を受けて前面に出てきたのです。それでも黒人女性の抑圧状態をよく知っていますから、かれらは解放闘争でもっとも強力な人員になっています。
(中略)
 黒人女性は、二つの点で差別される社会に暮らしています。白人女性と同じ条件で論じられることはありません。黒人女性にマイナスに機能する人種の点、性の点で、それに伴う心理的、政治的影響があります。黒人女性は文化的抑圧に押し潰され、合法的な権力構造によって不当に扱われています。これまでのところ、黒人運動も女性解放運動も、、女性である黒人のジレンマを正面からはっきりと取り上げたことはありません。個人女性が直面する問題を無視してきたのか、それとも対処する能力がないのか、その結果として、今日、黒人女性が自分で社会的、政治的に積極的になってきました。
 黒人女性が新しい姿勢を取るようになっているのは明らかです。その姿勢は、やがて将来、政治的結果を生み出すでしょう。

 【荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』(岩波文庫)より。一部表現を改めてあります。】

★私などの黒人解放運動の見方の盲点をつくスピーチです。

1924年ブルックリンに生まれたシャーリー・チザムは、1968年、黒人女性で初めての下院議員になりました。

★このような文章を読むと、バス・ボイコット運動(1955)のきっかけをつくった黒人女性ローザ・パークスの勇気ある行動は、特筆すべきものであったことがわかります。

★「ミシェル・オバマ待望論」というものがあるそうです。将来彼女が大統領になる可能性も、ゼロではないかも知れません。


Ⅺ フーリア・アルヴァレス「わたしもまた、アメリカをうたう」(2002)

 わたしが育ったところ[ドミニカ共和国]は、抑圧的で危険な独裁者が権力を握っていたところでもあった。社会科の時間、ある生徒が、独裁者のトルヒーヨを、我が国のほんとうの父親である、と讃えた作文を書いた。先生は、この国には父親はたくさんいます、トルヒーヨはそのひとりにすぎません、と感想を述べた。生徒は、軍の将軍の息子だったから、家に帰ると父親にそのことを報告したのだろう。その晩のうちに、その先生と奥さんと幼い子どもふたりの姿が消えた。
 (中略)
 1960年(10歳の時)、トルヒーヨに反対するわたしの父親の地下活動が明るみに出て、急遽、国を出ざるをえなくなった。アメリカの土を踏んだとたん、わたしたちはいきなり、ひどい訛りの英語を話す「スピック」[スペイン系アメリカ人に対する侮蔑語]、お金も展望もない移民になっていた。一晩で、国も、家も、親戚も、言語も、なにもかもをなくした。
 (中略)
 その頃のアメリカは、自分たちとちがう人間をあまり歓迎しない、皮膚の色のちがう、話す言葉が英語のようではない人間たちには、冷たい時代だった。生まれて初めて、偏見の目で見られることを、校庭で意地悪されることを、わたしは体験した。まるでちんぷんかんぷんの言語と文化と格闘した。
 (中略)
 きょうだいとわたしは、ふたつの世界、ふたつの価値観、ふたつの言語、ふたつの慣習のなかで、立ち往生した。これが、わたしたちに課せられていた難題だった。子どもの頃の昔の世界とはちがう新しい世界にやってきた移民たちは、たいてい、このことに直面させられていた。昔からの伝統なりルーツとつながりを保ちつつ、なおかつ、新しい国で豊かに生きるにはどうしたらいいか? 異なるふたつの世界や価値観は対立しあい、ときにはいがみあってもいるが、それをどのように処理すれば、もっと大きな、卑屈でない人間になれるものなのか?
 (中略)
 しかし、ときには、こういった苦しいことの数々が、大きな人間に自分をつくっていく機会になるものだ。わたしはハイブリッドになった−もともとの自分やホームタウンやホームランドから遠く離れたところを旅する者みんながそうなるようにである。わたしは、メインストリームのアメリカ人の女の子でも、完全にドミニカ人の女の子でもなくなった。でも同時に、無性にどこかに属したかった。こんな強烈な孤独と願望がわたしを本にみちびいた。
 (中略)
 わたしはそんなふうにして、大きく開いた文学のドアから、いよいよこの国のなかにはいった。ミスター・ホイットマンを読むことで、アメリカの約束を聞き、新しい国に恋をした。「わたしにはアメリカの歌うのが聞こえる、さまざまな喜びの歌が聞こえる」、ミスター・ホイットマンはそのように歌い、さまざまな種類のものがメインストリームにるつぼのように溶けていくということについては、異議を唱えていた。(中略)「わたし自身の多様性を拒むものをわたしは拒む。」
 (中略)
 自由の国はさまざまな不平等や欺瞞から自由ではないのだ、と知った。そういう間違いは人間にはつきものなのだった。自由とは、国のかたちをつくる機会があるということだった。いまだおこなわれたことのない進行中の実験に参加して、たくさんのひとたちのなかから、みんなに自由と正義をもたらすひとつの国をつくることなのだった。

 【アメリ国務省国際情報プログラム局編『私たちはなぜアメリカ人なのか』(青山南訳、ゆまに書房)より。一部表現を改めています。】

★フーリア・アルヴァレスは作家・詩人。

★本書には、15人の書き手のアメリカへの思いが収録されています。まさに、アメリカの豊かな多様性が示されていました。ブッシュ政権イラク攻撃を準備していた時期に、国務省の一部局がこのようなすばらしい本を編集したことに驚かされます。