復習プリントから考える世界史Bの授業・教科書(中世)【トルコ人の西方移動とイスラーム化(9〜10世紀)】

《復習プリントから》  *今回は、やや長い復習問題です。生徒たちにとっては理解しづらいテーマですが、文章をよく読んでいくと、授業内容が確認できるようになっています。

◇( 1 )の乱[755〜63]の際に唐を助けたトルコ系ウイグル[帝国]は、オアシスの道の商業活動の中心となってきたイラン系( 2 )人とも結びつきながら、中央ユーラシア東方を支配した。唐との同盟関係は経済活動にも表れ、唐に馬を運んで絹を持ち帰り、その絹を国際商品として西方に転売するという「( 3 )貿易」を展開した。

◆しかし、天災と内紛でしだいに弱体化したウイグル[帝国]は、840年、同じトルコ系の( 4 )に滅ぼされた。この結果、ウイグル人たちは西方・南方への移動を開始し、他のトルコ系の人々の西方への移動をも引き起こすことになった。
天山山脈東部地方に移住したウイグル人たちは、オアシス都市・農村に定住するようになった。これが「天山ウイグル王国(西ウイグル王国)」で、タリム盆地東部まで支配した。このウイグル人たちは、仏教や( 5 )教を信仰し、( 2 )商人に代わって国際貿易に活躍した[ウイグル商人]。この国は、13世紀にチンギス=ハンに服属するまで勢力を維持した。[※現在、天山山脈東部地方にはウルムチがあり、中国の新疆ウイグル自治区の中心都市である。]
◆他のトルコ系の人々は、天山山脈西部から( 6 )川・シル川にはさまれたソグディアナにかけても、居住するようになった。ソグディアナは、その名の通りもともと( 2 )人などのイラン系の人々の居住地であったが、トルコ人も増えていった。この結果、ソグディアナとその周辺からタリム盆地天山山脈東部にかけては、ペルシア語で「( 7 )」[トルコ人の住む地]と呼ばれるようになった。( 8 )高原を境に、西( 7 )・東( 7 )に区分される。

☆一方、アラブ人はウマイヤ朝時代にソグディアナまで進出していたが、さらにアッバース朝イスラーム軍は、751年の( 9 )の戦いで唐軍に勝利し、ソグディアナ北方まで進出した。ソグディアナとその周辺のイラン人のイスラーム教への改宗が進んでいたが、その波はトルコ人にも及んでいった。このような中でアッバース朝から自立したのが、ブハラを都としたイラン系( 10 )朝[9世紀後半〜10世紀]であった。この王朝の下で、トルコ人イスラーム化がさらに進んだ。
☆イランの( 11 )朝[224〜651]の血統につながるとも言われる( 10 )朝では、バグダードとの交流も盛んで、アラブ=ペルシア文化が栄えた。『医学典範』とアリストテレス研究で名高い( 12 )は、( 10 )朝時代のブハラの生まれである。

イスラーム教を受容した天山山脈西部のトルコ人は10世紀半ばに( 13 )朝[初めてのトルコ系イスラーム王朝]を建てた。( 13 )朝は10世紀末には( 10 )朝を滅ぼし、東西( 7 )を支配したため、この地域のトルコ化・イスラーム化はいっそう進展した。なお、同じ時期、アフガニスタンにもトルコ系( 14 )朝が成立し、まもなくインド北西部への進出を開始した。

■以上のようなトルコ人の西方移動とイスラーム化は、その後も続いていった。11世紀半ばにはトルコ系( 15 )朝が西アジア中心部に進出し、世界史の展開に大きな影響を及ぼすことになる。

【解答】
1 安史   2 ソグド   3 絹馬   4 キルギス   5 マニ   6 アム   7 トルキスタン   8 パミール   9 タラス河畔   10 サーマーン   11 ササン   12 イブン=シーナー   13 カラ=ハン   14 ガズナ   15 セルジューク


《授業との関連》

●この部分は、従来の世界史では、東アジア史やイスラーム史に関連して触れられるというかたちでした。私もそうでしたが、中央ユーラシア史についての教える側の理解も不十分だったと思います。しかし、中央ユーラシア史を世界史の中にきちんと位置づけることは、極めて重要です。そうでなければ、本当の意味で世界史とは言えないと考えるようになりました。また、従来からモンゴル帝国だけは重視されてきましたが、中央ユーラシア史の大きな流れの中にモンゴル帝国を位置づけて初めて、モンゴル帝国も理解できると思います。

●「ウイグルの四散」という言い方はしていません。散り散りになったような印象を与えてしまうからです。実際には、多くのウイグル人が新たな国家形成をしました。それが「天山ウイグル王国(西ウイグル王国)」です。授業では内容的には深入りしていませんが、国名は出しています。

●生徒たちは、民族・語族の理解が大変なようです。問題文を見ていただくとわかりますが、イスラーム王朝名の前に、必ず民族系統をつけて覚えるよう話しています。

●イブン=シーナーはもちろんイスラーム文化で取り上げますが、サーマーン朝のところにも組み入れています。文化でだけ取り上げると、いつの時代のどこの人かがわからないままになる恐れがあるからです。またイブン=シーナーを取り上げることで、サーマーン朝の文化的レベルを理解することもできます。

●※印の部分は軽く触れるだけですが、近現代史とのつながりに注意を喚起しています。今回のテーマに限らず、授業では、古代史と中世史、古代史・中世史と近世史・近代史・現代史のつながりを意識できるように工夫しています。世界史の学習では、時間的な奥ゆきを感じることが大切です。


《教科書との関連》 

●すでに新課程用教科書の検討で取り上げていますので、ご覧ください。→ 教科書検討③【トルキスタンの成立】

●「中央ユーラシア」という語の使用についても、教科書検討③で比較し、私見を述べています。

●教科書検討③で述べたように、『詳説世界史B』(山川出版社)の「第6章1トルコ化とイスラーム化の進展」は、たいへんすぐれた内容です。[なお、『詳説世界史B』準拠の問題集「世界史総合テストplusα」の問題文は、不思議なことですが、教科書の内容を十分に生かしていません。]

●教科書検討③では対象にしていませんでしたが、『新詳世界史B』(帝国書院)は、中央ユーラシアの歴史を世界史全体の中にきちんと位置づけています。中央ユーラシアに関する地図は、山川の『詳説世界史B』より数も多く、たいへん充実しています。帝国だけが、地図に「西ウイグル王国」を記載しています。「トルコ人の西方移動とユーラシアの変動」の本文や注も、簡にして要を得た、すぐれた叙述だと思います。

●同じく教科書検討③では対象にしていなかった山川の『新世界史B』は、残念ながら、中央ユーラシア史に関しては極めて不十分です。

※大学教養課程用のテキスト『市民のための世界史』[大阪大学歴史教育研究会編、大阪大学出版会]が出版されました(2014年4月)。中央ユーラシア史については、教えられることがたくさんありました。ただ、前近代の中央ユーラシアを過大に取り扱う傾向があり、今後議論が必要だと思います。近々、本ブログに書評を載せる予定です。