現代 東アジア 【詩人・尹東柱が生きた時代】

★1941年12月、「戦時学制短縮」により尹東柱ユン・ドンジュ、1917年12月生まれ)は、ソウルのヨニ専門学校(現延世大学校)文科を卒業した。卒業記念に自選詩集『空と風と星と詩』の出版が計画されたがうまくいかず、自筆で3部の詩集が作られた。その中の一篇が「序詩」であった。

 死ぬまで天を仰ぎ
 一点の恥じ入ることもないことを、
 葉あいにおきる風にさえ
 私は思い煩った。
 星を歌う心で
 すべての絶え入るものをいとおしまねば
 そして私に与えられた道を
 歩いていかねば。

 今夜も星が、風にかすれて泣いている。

強く純粋な倫理性に支えられた、清冽な抒情。「序詩」は、今も、私たちを惹きつけてやまない。
 ここに掲載したのは、岩波文庫版の金時鐘(キム・シジョン)の訳である。日本では長らく伊吹郷の訳で親しまれてきたが、伊吹訳は日本的な抒情性に傾斜していたように思われる。また最初の行の「ハヌル」を金時鐘は「天」と訳しているが、伊吹訳では「空」となっている。伊吹訳の他にも複数の訳があり、どのような日本語訳が適切かをめぐって論争が続いてきた。それは、尹東柱のとらえ方をめぐる論争でもあった。金時鐘の訳は、論争を踏まえてよく練られたものと思われる。ただ、2行目のややぎこちない日本語が惜しまれる。
 この詩は1941年11月下旬に書かれたが、その1ヵ月後、尹東柱の一家は創氏改名に応じ、「平沼」姓になった。太平洋戦争が始まってまもなくの時期である。「序詩」は、自分たちの名さえ奪われる時代に、ハングルで書かれた。

 1919年の「三・一独立運動」以後、日本の朝鮮統治はいわゆる「文化政治」へと転換した。大正天皇詔書では「民衆ヲ愛撫スルコト一視同仁朕ガ臣民トシテ秋毫ノ差異アルコトナク」と述べられ、総督府は「文化的制度ノ革新」によって朝鮮の人々を誘導しようとした。この同化政策は、1937年の日中戦争開始以降戦時色を強めていき、太平洋戦争開始とともにさらに強化されていく。「文化」は、時に凶暴な様相を呈する。天皇の「一視同仁」も、朝鮮総督府の唱えた「内鮮(内地[日本]と朝鮮)一体」も、朝鮮の人々を「皇国臣民」に仕立てるためのものであった。神社参拝や宮城遙拝、学校における「国語常用」(朝鮮語の排除)、「皇国臣民の誓詞」斉唱などが強力に推進された。1937年に制定された「皇国臣民の誓詞」とは、次のようなものであった。

 一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス。
 二、私共ハ心ヲ合セテ、天皇陛下ニ忠義ヲ尽クシマス。
 三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス。

これを、朝鮮の子どもたちが、学校の朝礼で毎日斉唱していたのである。大人用の「誓詞」もあり、官庁や一般の職場での斉唱が義務づけられた。そして、1938年からは志願兵制度が導入され(戦争末期の1944年からは朝鮮からの徴兵さえ始まった)、1940年2月には創氏改名に関する制令が施行された。人の名はその民族の文化そのものであるが、それが奪われたのである。尹東柱は、このような嵐の時代にクリスチャンとして育ち、リルケキルケゴールに傾倒しながら、詩を書いていたのだった。

 尹東柱は、父の勧めで日本に留学する。1942年4月東京の立教大学英文科に入学、10月には京都の同志社大学英文科に転学した。しかし、1943年7月、従兄弟の宋夢奎(ソン・モンギュ、京都帝国大学西洋史学科に在籍)とともに、独立運動の容疑で逮捕された。日記や詩ノート、蔵書も押収された。特高は「在京都朝鮮人学生民族主義グループ事件策動」として、捜査していたのであった。翌年、2人とも懲役2年の判決を受け、福岡刑務所に移された。1945年2月尹東柱は獄死(死因は明らかにされていない)、3月には宋夢奎も獄死した(やはり死因は明らかにされていないが、毎日何かの注射をされていたという)。2人とも27歳だった。日本の敗北・朝鮮の解放まであと半年という時期であった。
 当時の朝鮮の若者が民族について、朝鮮の文化について、ハングルで書くことについて話し合っていたとしても、何ら不思議なことではない。しかし、それらは政治的謀議と見なされたのだった。尹東柱の詩に、クリスチャンとしての真情はうかがえても、独立運動の直接的メッセージは見当たらない。彼が直接独立を目指す活動にコミットしたとは考えられない。だが一方、彼を単に「心優しい抒情詩人」と位置づけることも正しくはない。彼は、何よりも、詩を書くことで抵抗していた。朝鮮の文化が踏みにじられ、プロパガンダ一色に染まっていく時世のなか、ハングルで「反時代的」な詩を書き続ける行為は、むしろきわめて政治的なものでもあっただろう。

 尹東柱は、北間島(プッカンド)の出身であった。北間島とは、現在の中国吉林省東南部の延辺朝鮮族自治州であり、今は北朝鮮・ロシアと国境を接しているところである。尹東柱の歌った空や風や星は、何よりもこの北間島の空や風や星であった。尹東柱の原風景が、朝鮮半島ではなく北間島という満州東端の開拓地にあったことを、忘れてはならない。
 尹東柱が生まれた頃、北間島は、混乱続く中華民国の一部であった。北間島には清の時代から朝鮮人が移住していたが、日本による土地調査事業で土地を失った農民が続々移住するようになり、尹東柱が生まれた頃には30万人以上の朝鮮人が住むようになっていた。しかも、朝鮮独立運動の拠点となっていたのである。日本軍は、1920年には「間島出兵」さえおこなっている。1932年からは「満州国」の一部となったが、満州は朝鮮独立運動の最大拠点であった。
 尹東柱の父方の祖先も母方の祖先も、1900年前後に北間島に移住してきた人々で、祖父の代からクリスチャン(プロテスタント)であった。19世紀末、朝鮮のプロテスタントの多くが朝鮮北西部に居住しており、そこから北間島に移住したのである。大韓帝国の危機とともに、クリスチャンは増加していた。人々は、精神的なよりどころをキリスト教に求めたのだった。その多くは知識階層であり、「三・一独立運動」には準備段階から積極的に参加していた。朝鮮のキリスト教は、強い民族意識と抵抗精神の母胎となっていたのである。
 尹東柱と宋夢奎について、日本の特高は、「北間島出身でクリスチャン」というところに目をつけていたに違いない。二人は、最初から「独立運動を進める留学生」としてマークされていたと思われる。

 けれども、尹東柱が意志的に選んだのは、独立を目指す義兵の道ではなかった。多分、信仰による救済の道でもなかった。それらと静かに深く共振しながらも、朝鮮語の詩精神を耕し続けることを、尹東柱は選んでいた。光の見えない時代の中での、極めて困難な道。それは、尹東柱のなかでは、ほとんどミッションのように感じられていたのではないか。

 私に与えられた道を
 歩いていかねば。

 しかし、残酷にも、その道は絶たれてしまった。北間島の実家に福岡刑務所から届いた電報には、次のように記されていたという。

 「十六ニチトウチュウ シボウ シタイトリニ コイ」

このような日本がかつてあったことは、とても恥ずかしいことだ。

 尹東柱の詩は、時代を越え、民族の違いを越えて生き続けてきた。
 誤解を恐れずに言えば、尹東柱を「朝鮮民族の抵抗詩人」や「クリスチャンの抵抗詩人」という枠の中だけに収めてしまうことは、避けなければならないだろう。彼の歌った空や風や星は、私たちをより広い世界へと、普遍性へと開いてくれているのだから。

《参考文献》
 金時鐘編訳『尹東柱詩集 空と風と星と詩』(岩波文庫
 糟谷憲一「植民地支配下の朝鮮」(武田幸男編『朝鮮史』[山川出版社]所収)
 T.フジタニ「殺す権利、生かす権利」(『講座アジア・太平洋戦争3 動員・抵抗・翼賛』[岩波書店]所収)
 浅見雅一・安廷苑『韓国とキリスト教』(中公新書
 茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日文庫