復習プリントから考える世界史Bの授業・教科書(古代末期)【西ローマ帝国の滅亡と4〜5世紀】
《復習プリントから(基本事項を確認し、流れをつかもう)》 *はやや難
●ゲルマン人の移動はさらに激しくなり、476年、ゲルマン人の傭兵隊長( ア )によって西ローマ帝国は滅ぼされた。一方、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、*( イ )年まで存続した。
●西ローマ帝国が滅亡する前、すでにゲルマン人の諸王国が成立していた。*( ウ )半島の西ゴート王国、北アフリカの*( エ )王国などである。また、西ローマ帝国滅亡後まもなく、クローヴィスの( オ )王国が成立した(481)。なお、同じ時期の東アジアでは、鮮卑の建てた( カ )の孝文帝が均田制を施行している(485)。
【解答】
ア オドアケル イ 1453 ウ イベリア エ ヴァンダル オ フランク カ 北魏
《授業との関連》
★通常の授業では、西ローマ帝国の滅亡と中世西ヨーロッパ世界の成立の間がかなりあいてしまいますので、西ローマ帝国滅亡の実相がなかなか伝えられません。このため最近は、すでにゲルマン人の王国ができていたことに触れています。
★ゲルマン人の移動は、のちに中世西ヨーロッパ世界の成立のところで本格的に取り上げますが、西ローマ帝国末期で触れておかないと、アウグスティヌスが生きた時代も理解することができません。ヴァンダル人18万人は、429年にジブラルタル海峡を渡り、カルタゴの故地へと向かいました。アウグスティヌスはカルタゴ西方のヒッポ(現アルジェリアのアナバ付近)の司教でしたが、その晩年ヴァンダル人の侵入を体験することになったのでした。
★4〜5世紀は、東アジアでも遊牧民の華北侵入が激化した時代でした。ゲルマン人の移動開始から西ローマ帝国滅亡までの授業で、東アジアの動きにも触れることにしています。また魏晋南北朝時代の授業でも、ゲルマン人の移動から西ローマ帝国の滅亡を確認することにしています。
★2世紀や8世紀に比べ、4〜5世紀のユーラシアを取り上げることは少ないと思いますが、古代世界から中世世界への移行を考える上でたいへん重要な時期だと考えています。
《教科書との関連》
◆西ローマ帝国滅亡の時点ですでにゲルマン人の王国ができていたことを記述しているのは、<東書>と<山川(新)>です。
◆<東書>は、ローマ史の最後に「ゲルマン人の大移動と帝国の分裂」をおき、西ローマ帝国の滅亡の実相を記述しています。(西ローマ帝国の滅亡の後にユスティニアヌス帝について述べ、中世ヨーロッパは7世紀のビザンツ帝国から入るという大胆な構成です。)
○『傭兵隊長のゲルマン人オドアケルは西の皇帝に退位をせまり、皇帝位を形だけ東の皇帝に返上させた。この476年の出来事をしばしば「西ローマ帝国の滅亡」というが、西の帝国領内にはゲルマン人の諸王国が乱立し、帝権の及ぶ余地はなかったからである。』
◆<山川(新)>は、<東書>よりも詳しく、ゲルマン人の移動の経緯を記述しています。そして、次のようにまとめています。
○「西ローマ帝国が滅ぼされた頃、旧ローマ帝国領内では、東に大移動の影響を受けることの少なかった東ローマ帝国があり、イタリア半島にはオドアケルの国家が、ガリア南部にはブルグンド人の、北アフリカにはヴァンダル人の、そしてイベリア半島には西ゴート人の国家が建てられていた。ヨーロッパの西部をやがて統一することになるフランク人は、当時アラマンニ人を服属させてようやくガリア北部一帯領有するにいたったところであった。」
◆<山川(新)>は、教科書全体の構成に特色があります。<東書>・<実教>・<帝国>の構成とは一線を画し、大きな時代区分に沿って、第Ⅰ部・古代から第Ⅴ部・現代までの5部構成をとっています。各部の始めに長い解説がおかれていますが、特に第Ⅱ部・中世と第Ⅲ部・近世の解説は、高校の教科書としては斬新な内容です。時代区分論としてもすばらしく、たいへん参考になります。「西ローマ帝国の滅亡と4〜5世紀」というテーマに関連しているのは、第Ⅱ部・中世の解説です。4世紀のユーラシア中緯度地域の変動に注目しながら、中世を現代世界の基層として位置づけ、示唆に富む叙述となっています。
※復習プリントの基本的考え方については 【復習プリントと世界史Bの授業づくり】