♥世界史ブックガイド[文化と社会]⑧【司馬遼太郎『草原の記』】

 世の中には、隠れた名著がたくさんあります。司馬さんの傑作小説群や紀行シリーズほどには目立ちませんが、この『草原の記』はまさにそうした本だと思います。遊牧民の歴史を縦横にたどりながら、激動の20世紀を生き抜いた、ツェベクマさんというモンゴル女性を描いています。

 冒頭に記された、つぎのような文章。

 「そこ[モンゴル高原]は、空と草だけでできあがっている。人影はまばらで、そのくらしは天に棲んでいるとしか思えない。」([ ]内は引用者の補足)

 目の前に、空と草原が広がるようです。遊牧民は、古来「天」とともに生きてきたのでした。中国の「天の思想」が遊牧民から伝わったことも、よく理解できます。

 司馬さんは、若い時から、何度も草原地帯を訪れ、モンゴルの風土と人々を深く愛してきました。その愛なくしては、『草原の記』は生まれなかったことでしょう。本書では、遊牧民と農耕民がくっきりと対比的に描かれています。また、数々の歴史的エピソードが鏤められており、私などはずいぶん授業で使わせてもらいました。ここでは、印象的な文章を二つだけ紹介します。

 「匈奴は馬に騎(の)っています、漢人がたまげて、あなたは何であるかと問いました。これに対し匈奴は馬上から、自分はフン(人)である、と答えたのです。それが、民族の名称として一般化したのです。[フンヌ=匈奴]」

 「[オゴタイ・ハーンは]せっかくカラコルムという都城をつくりながら、ほとんどは野外にいて、天幕でくらした。いまのウランバートル市民が、草原の夏を好むようにである。/さらには、厳冬を好んだ。/大すきな狩猟の季節だったからである。」

 普通狩猟はモンゴル人と結びつかないかも知れません。しかし、本書にもさらっと書かれていますが、もともとモンゴル人は森林地帯と草原地帯の境界に暮らしていたと考えられています。「蒼き狼」の伝説も、そのようなところから出てきたのでした。

 本書の後半を中心に、ツェベクマさんの人生が描かれています。モンゴル人にとって苛烈な時代となった20世紀、そして歴史の荒波を懸命に生きてきたツェベクマさん。詳しくは本書を読んでいただきたいと思いますが、慄然とせざるを得ない歴史的現実が突きつけられます。彼女の人生には、ソ連や「満州国」が、漢族中心の中華人民共和国建国が、さらには文化大革命さえもが、深く関わったのでした。

 司馬さんが引用している、オゴタイ・ハーンの言葉が心に残ります。

 「人間はよく生き、よく死なねばならぬ。」

新潮文庫、1995年(単行本は1992年)、430円】