▸【『市民のための世界史』の書評に対する桃木至朗さんの反論について】

桃木至朗(ダオ・チーラン)さんが、ブログで 私の書評について反論していました [2014‐08‐29]。「かみ合わない議論」の一つの典型のように思われましたので、あえて感想を書かせていただきます。

■執筆者の代表がわざわざコメントしてくださったのですが、焦点は合っていませんでした。書評で指摘したことについては、ほとんど答えられていません。また、桃木さんの文章は、あまり論理的ではありませんでした。書評への感想は、いつのまにか、今までの阪大歴教研への反応に対する攻撃にスライドしてしまっていました。一応「感謝」とは言っていただいているのですが、書評をもう少していねいに読んでほしかったと思います。

■私の書評は、『市民のための世界史』が大学教養課程のテキストであることをきちんと踏まえています。また、『市民のための世界史』を世界史Bだというふうに受け取ってはいません。まして、「これを高校で教えるべきなのか」などとは、一言も述べていません。桃木さんはなぜ読み違えたのでしょうか? 「既存の固定観念」(何を指すのか詳らかではありませんが)で書かれたものだと断定してしまったからです。桃木さん自身が、「既存の固定観念」で書評を読んでしまったのでしょう。

■残念なことですが、ブログの文章に流れているのは、「阪大歴教研での長い議論の歴史を知らない人にはわからないだろう」という考え方のようです。「阪大歴教研での長い議論の歴史を知らない者の批判は受けつけない」という口吻を感じてしまいます。書評の冒頭で述べた通り、私は阪大歴教研の活動を多少は存じ上げているつもりですが、まさか全国の大学生や市民に「阪大歴教研での長い議論の歴史を知って読め」と要求するわけではないでしょう。もっと開かれた姿勢が必要だと思います。万が一にも、意見表明の自由を封ずるようなセクショナリズムに陥ってはなりません。

■私が書評の最後のほうで述べた点については、「歴史観を学生たちに植え付ける」考えはないことが述べられています。それならば、叙述のしかたをもっと考えなければなりません。テキスト全体の構成や取り上げる内容、資料提示のしかたにも、いっそうの工夫が求められると思います。いま大学生に必要なのは、「世界史へのアプローチのしかたを学べるテキスト」ではないでしょうか。(*)

■言うまでもないことですが、書かれたテキストは、世界史そのものではありません。あくまで、広く深い世界史への一つのブリッジです。しかし、この当たり前のことが忘れられているように思えます。 広く深い世界史に対して、私たちは謙虚でなければなりません。残念ながら、『市民のための世界史』にも、桃木さんのブログの文章にも、歴史叙述のあり方についての内省は感じられませんでした。

■「その1冊だけ読んで、著者(たち)の他の著作や経歴・学会活動に配慮しないようでは、書評は書けない」という言葉にも、少々驚きました。「学者」として、whomoroなる者を軽くあしらったつもりなのでしょう。しかし、「経歴・学会活動」への「配慮」など、学生たちにも求めるべきではありません。いま世界史の教育・研究に必要なのは、「経歴・学会活動」への「配慮」などではなく、さまざまな角度からの自由闊達な議論であるはずです。互いに「対話的理性」を働かせることを、もっと意識しなくてはなりません。なお「他の著作」に関してですが、勘違いがあるようです。私が書いたのは個人の研究書の評ではなく、あくまで世界史テキストの評です。

■私が願うのは、より良い世界史テキストが出版されることです。「その1冊だけ」で各方面からの批評に耐えうるような世界史テキストです。

(*)遅塚忠躬氏は次のように書いていました。「もしも歴史学に進歩があるとすれば、より多くの事実に立脚した解釈(仮説)を次々に提示することによって、読者が解釈ABCのいずれを選択するか(あるいは読者自身がABCをつきまぜて独自の解釈PやQを構想するか)という、選択肢を増加させうるということに尽きるであろう。」[遅塚忠躬『フランス革命に生きた「テロリスト」』、2011、NHKブックス

※桃木さんの考え方については、次のページもご覧ください。➡ 【世界史教育と教科書・研究者<シンポジウムが映し出したもの>】

【書評『市民のための世界史』】