▲【世界史教育のいま −問われる教科書・研究者−(シンポジウムで見えたもの)】

★2015年3月4日に立教大学で「公開シンポジウム 高校世界史教科書記述・再考 研究者の視点から」が開催され、参加してきました。私の「参考資料」(本ブログの一部)の配布を快く承諾してくださった主催者に、感謝申し上げます。参加者は50人余りでした。


★内容は次の通りでした。

1 講演 
 桃木至朗大阪大学)「新しい世界史叙述と歴史学入門を目指して 〜阪大史学系の取り組みから〜」

2 報告
(1)小澤実(立教大学)「高校世界史教科書における中世ヨーロッパの位置」
(2)上田信立教大学)「高校歴史教科書における日中関係の記述」
(3)貴堂嘉之一橋大学)「高校歴史教科書における<アメリカ合衆国> −人種・エスニシティ・人の移動史を中心に−」

3 討論


★シンポジウムの開催自体は、意義あるものだったと思います。世界史の授業を展開する上でのヒントも得ることができました。しかし、教科書の現状を再考するところまではいかず、むしろ研究者の世界史教育への関わりの現状を映し出す結果になったと思います。今後の世界史教育の充実のために、以下ではあえて率直な感想を述べさせていただきます。


■講演・報告について

◇桃木さんのレジュメは詳細なものでした。使命感に溢れた、熱い講演だったと思います。(しかし、看過できない部分がありました。最後に述べます。)

◇桃木さんの問題提起は多岐にわたっていましたが、本ブログで述べてきたこと(たとえば「世界史の授業を考える」や「高校世界史の現状と大学教育」)と共通する内容も多かったように思います。ただ、「教科書記述でスクラップすべき事項の検討」という考え方を、私は明確に持っていませんでした。きちんと受けとめなければならないと思います。また、紹介されていた神奈川県の高大連携の取り組みは、たいへん興味深いものでした。

◇桃木さんのレジュメに、『市民のための世界史』への反応を取り上げたページがありました。「正史・正典を求めて失望しているのは筋違い」という部分は、私の書評への批判だと思われますが、強い思い込みをもとに批判を展開するということでは困ります。私が大阪大学歴史教育研究会に「正史・正典」を求めるなど、あり得ないことです。そもそも私には、「正史・正典」という発想そのものがありません。「市民のための世界史」としても大学教養課程のテキストとしても適切な内容ではない、というのが私の書評の趣旨です。

◇小澤さんの報告には、非常に重要な指摘がありました(封建制ツンフト闘争、東ヨーロッパ、俗語文化など)。ただ、せっかくのシンポジウムなのですから、レジュメはもう少し充実させるべきだったでしょう。「西ローマ帝国末期と中世初期」、「中央ヨーロッパ」、「聖母マリア信仰」、「近世と近代」(レジュメでは「近世」という語は使われていませんでした)など、質問したいことがたくさんあったのですが、残念ながら時間的余裕がありませんでした。

◇上田さんの報告で、「中国の歴史 全12巻」(10年ほど前に講談社から出ていたものです)の中国語訳が出版されたことを知りました。とても意義のあることだと思います。「朝貢冊封」について教科書記述の比較がなされていましたが、たいへん残念なことに、新課程の教科書と旧課程の教科書がきちんと区別されていませんでした。

◇貴堂さんの報告は、執筆された実教出版「世界史B」の記述の紹介にとどまるものでした。「アメリカ史研究の現状と高校世界史教科書」というようなお話をお聞きしたかったところです。

◇「公開」と銘打たれていたものの、世界史教育のあり方をオープンに真剣に探究する雰囲気があったとは言えません。正直のところ、各報告には「仲間の集まり」的な甘さが感じられました。また、私大の入試問題に関して「W大」(と表現されました)が批判され、会場から笑いがもれました。公開のシンポジウムとしては、好ましくない場面だったと思います。


■討論について

 3の「討論」は、残念ながら(このような会ではよくあることとはいえ)、「質疑応答」にとどまるものでした。講演者・報告者といわゆる「フロア」が対等な関係にないためだと思います。司会者にも、「討論をつくる」という意欲が感じられませんでした。


■さらなる教科書検討のために

◇各社の新課程用教科書の記述の詳細な比較・検討がなされるものと思って参加したのですが、必ずしもそのような趣旨ではなかったようです。「再考」のためには、複数の記述の比較・検討が欠かせないと思いますが、その作業自体がほとんど行われていませんでした。高校世界史教科書の記述をどのように再考したいのか、最後まで明らかではありませんでした。

◇驚くべきことに、世界史Bの新課程用教科書がどの出版社から何冊出ているのかを把握していない報告者もいました。このような状態では、「高校世界史教科書記述・再考」などできるはずがありません。

◇教科書におけるコラムについては全く話題に上りませんでしたが、考えておく必要があります。貴堂さんが関わっている実教出版の「世界史B」や桃木さんが関わっている帝国書院の「新詳世界史B」は、非常にコラムの多い教科書です。コラムで本文の内容を補足するという意図は理解できますし、コラムを読むことによって多角的に歴史を見ることができるようになるとは思います。

◇しかし私は、コラムを増やすよりも、本文そのものを改善・充実させてほしいと考えています。何よりも、学習する生徒たちの立場に立って考えてみなければなりません。というのは、本文の内容とコラムの内容を関連させてトータルに理解するためには、かなりの力が要求されるからです。多くの生徒たちにとっては、コラムが多過ぎると、歴史の大きな流れをつかみづらくなってしまいます。また、新しい見方をコラムで載せていくという編集方針をとると、本文の内容が古いまま残っていくということになりかねません。(実教の教科書にはそのような傾向が見られます。)コラムの位置づけについては、今後十分な検討が必要だと思います。

◇各教科書の文化史の記述は大分よくなってきていますが(ルネサンス以降の記述は東京書籍の「世界史B」がすぐれています)、文化史をどう教えるかは悩ましい問題です。そこで、文化史の記述のあり方について質問してみたのですが、ある報告者から「文化的事項の羅列にも意味がある」という発言がありました。シンポジウムの質が、ここにも表れていたと思います。「文化的事項の羅列にも意味がある、あとは教え方しだいだ」というのでは、いったい何のための「高校世界史教科書記述・再考」だったのでしょうか?

◇上の発言にも見られるように、文化はやはり軽視されているようでした。残念ながら、講演者・報告者の多くが、いまだに大正教養主義的な古い見方で文化をとらえているのだと思います。それは、桃木さんの「ハイカルチャー」と「ポピュラーカルチャー」を分ける考え方によく表れていました。言うまでもなく、そのような文化観は、とうに過去のものとなっています。たとえば、そのような文化観の無効性の認識から、フランスで「心性の歴史」への着目が始まったのでした。それは、20世紀前半のことです。

◇桃木さんの提起の中にジェンダーの問題がありましたので、一言述べます。昨年は、『ジェンダーから見た世界史』(大月書店)が出版されましたし、大学生向けの新しい西洋政治思想史テキストでも今までにない内容が見られました(『西洋政治思想資料集』[法政大学出版局]でウルストンクラフトが取り上げられていました)。本ブログでも、不十分ながら、ジェンダーをテーマに世界史B教科書3冊を比較していますが、高校世界史でも避けて通れないテーマです。ただジェンダーは、人種・エスニシティ・階級・文化表象などと複雑に絡み合っており、簡単なテーマではありません。また、ジェンダー視点の歴史が女性史とイコールではないことを、小澤さんが指摘していました。

◇なお、桃木さんが関わっている帝国書院の「新詳世界史B」は、ジェンダーの視点が非常に弱い教科書です。たとえば、グージュやウルストンクラフトに触れていないだけでなく、ハリエット・ストウをいまだに「ストウ夫人」と表記しています。また、多くの教科書が現代の重要な動きとしてフェミニズムを取り上げていますが、そのような問題意識自体がありません。


■世界史教育と研究者

◇先にも述べましたが、各社の新課程用教科書の記述の比較・検討はなされませんでした。他の研究者への遠慮なのでしょうか? 論争に発展するのを避けたいのでしょうか? あるいは、自分が関わっていない教科書会社への配慮なのでしょうか? 研究者同士の関係や業界の事情もあるのでしょうが、それらにとらわれることなく教科書の記述をきちんと比較・検討してほしいものです。大切なのは、よりよい教科書作成なのですから。

◇極めて残念だったことを述べねばなりません。高大連携を進めているはずの桃木さんが、「学部卒の教員=理解力のない教員」と決めつけ、強い言葉で非難していたのです。<大学の研究者−大学院卒の高校教員−学部卒の高校教員>という序列を前提とし、それを強化するような発言でした。世界史教育をめぐる根深い問題(研究者の権威主義)が露呈していたと言わざるをえません。高大連携の双方向性は、考えられていないのです。

◇少し考えればわかるように、大学には「○○史の専門家」はいても、「世界史の専門家」はいません。ほとんどの研究者は、世界史を先史から現代まで通して教えた経験はないでしょう。しかし、このことを自覚している研究者がどれほどいるでしょうか。その自覚のなさが、権威主義を生んでいると思われます。

◇「○○史の専門家」と「世界史を教える高校教員」との協同作業なしに、世界史教育は成り立ちません。教科書を執筆し世界史教育に関わる研究者には、教育という協同の営みを真摯に考える、社会的で人間的な「視点」が求められているのです。


※私は、在野の中の在野といった立場で、本ブログを書いてきました。研究会や学会とは現在は無縁ですし、各教科書会社とも等距離を保ってきました。「世界史教育を充実させたい」という思いだけで書いてきたと言っても過言ではありません。そのような立場からしますと、2015年7月に発足した「高大連携歴史教育研究会」には、若干の危惧を持っています。桃木至朗さんが副会長・運営委員長になり、実質的な権限を持ったようですが、彼の考え方に異論を述べづらいような研究会になっては困るでしょう。オープンで自由闊達な議論ができる会であってほしいと願っています。[2015年9月追記]

【世界史の授業を考える】

世界史B教科書の記述を比較してみると4【ジェンダー】