<問いからつくる世界史の授業[資料]>(近代)【エミリー・ブロンテは祈り、闘った】

★世界史でもジェンダーフェミニズムという語が使用されるようになっています。ただ、教科書の記述が不十分な中で、授業ではどのようにアプローチすればいいのか、模索が続いてきました。

★当然のことながら、女性参政権実現の経過についてはすべての教科書が取り上げています。グージュやウルストンクラフト、あるいはカルティニなどを取り上げる教科書も出てきました(世界史Bに限定して述べます)。実教の『世界史B』ではグージュとカルティニを、山川の『新世界史B』ではグージュとウルストンクラフトを、東書の『新選世界史B』ではカルティニを取り上げています。ただいずれの教科書も、本文ではなくコラムに記しています。

★この3人に全く触れていないのは、山川の『詳説世界史B』と『高校世界史B』、東書の『世界史B』、帝国の『新詳世界史B』です。

★一方、たとえばローザ・ルクセンブルクは、多くの教科書に取り上げられています。グージュやウルストンクラフトは取り上げず、ローザ・ルクセンブルクを取り上げる、これが日本の高校世界史教科書のスタンダードになっているのです。ローザ・ルクセンブルクが重要でないとは言いませんが、バランスを欠いた取り上げ方ではないでしょうか。

★また、多くの教科書が、フェミニズムという語を20世紀後半の記述で使っています。ここにも、不十分さが出ています(帝国の『新詳世界史B』にはフェミニズムという語自体がありませんが)。山川の『新世界史B』だけが適切な記述をしています。19世紀ヨーロッパのコラムで19世紀後半にフェミニズムが誕生したことを述べ、20世紀後半の本文にも記しています。

★このように世界史教科書の非常に遅れた実態があるわけですが、資料集にはグージュやウルストンクラフトも、カルティニも、しばらく前から載っています。私自身は、資料集などを使いながら、これらの人びとには触れてきました。

★しかし、踏み込んだ授業は、なかなかできませんでした。今回のオリジナル問題は、もう一歩踏み込もうとして作ったものです。ジェンダーの視点を組み入れた授業へのアプローチの一つです。授業は<問題+解説(◆の部分)>で構成します。

★通常の高校世界史の立場からは、風変わりな問題に見えると思います。でも、「通常」の枠にはとどまっていては、より豊かな世界史の授業をつくることはできないでしょう。場合によっては、教科・科目の枠を越えることも必要です。生徒たちが考えやすいよう、最後の文を若干工夫してあります。


問題☆ [プラスα]

 小説『嵐が丘』(1847)の作者として有名なエミリー・ブロンテは、たくさんの詩ものこした。次にあげるのは、エミリーが23歳の時書いた詩の一節の翻訳である。空欄には、どのような語が入るか。漢字2字で答えよ。

 もしわたしが祈るならば
 わたしの唇を動かす唯一の祈りは
 「いま持っている心はそのままに
 わたしに[     ]をあたえよ」

 そうだ、わたしの日々が足早に終わりに近づくとき
 わたしが心から願うのは ただ
 生と死をとおして 耐える勇気をもつ
 束縛なき魂!

 (1841年、上田和夫 訳)


◆空欄の行の原詩は

  And give me liberty

です。したがって、正解は 自由 となります。

◆同じく23歳の時の別の詩では、次のように書いています。

 しかし たとえ今日
 冷たい虜囚の身をなげいても
 明日はともに大空高くかけて
 永遠に まったく「自由」であることを考えよう

 (1841年、上田和夫 訳)

アメリカ独立戦争直前のパトリック・ヘンリの‘give me liberty’とは異なり、エミリー・ブロンテでは内面の自由が切実に求められていました。19世紀半ばのイギリス社会で、女性が‘give me liberty’と言い切ったことは、歴史的に大きな意義を持つのではないかと思います。姉のシャーロットも、妹のアンも、きっと同じ思いだったに違いありません。女がものを考え書くこと自体が、抑圧されていた時代でした。彼女たちにとって、文学的営為と自由は不可分のものだったのです。

◆内面の自由と社会的・政治的自由をいっしょくたにはできませんが、全く別に論ずることも正しくないでしょう。19世紀後半から起こる第一波フェミニズムは、女性の社会的・政治的自由を求める運動でした。この運動を18世紀末のウルストンクラフトとつなげるだけでは、不十分であるように思われます。第一波フェミニズムの背景には、エミリーら女性作家たちの自由への希求と苦闘もあったと思われます。これらの動きとは別に取り上げられるフローレンス・ナイティンゲールも、実は、女性に対する社会的抑圧への怒りを共有していたのです。

エミリー・ブロンテは、作家として世に知られることもなく、1848年に亡くなりました。30歳の若さでした。翌年には妹のアンが亡くなります。『ジェイン・エア』で一応成功していたシャーロットも、1855年に38歳で亡くなりました。結婚して9ヵ月後のことでした。彼女たちは、パックス・ブリタニカの時代に、恵まれない生活の中で、自由を求めて書き、倒れたのでした。

◆『嵐が丘』の評価が高まったのは、20世紀になってからです。

エミリー・ブロンテの詩集は、現在では手に入りにくくなっています。今回使用した上田和夫訳は、1966年出版の筑摩書房版「世界文学全集19」に収録されているものです。また、岩波文庫の『イギリス名詩選』には、2篇収められています。集英社文庫ヘリテージシリーズの『ブロンテ姉妹』(2016年秋刊行予定)には、久しぶりにエミリー・ブロンテの詩集が収録されるとのことです。

※なお、エミリーやシャーロットより少し年上の女性作家に、メアリ・シェリーがいます。メアリ・ウルストンクラフトの娘です。小説『フランケンシュタイン』の作者で、詩人のシェリーと結婚しました。彼女は、1851年に亡くなっています。

※関連ページ ➡ 世界史ブックガイド⑩【ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』】

こんな考え方で書いていきます【<問いからつくる世界史の授業>について】