総合 【哲学? 混沌? プロタゴラス的な「折々のことば」(鷲田清一)】

タレスが「万物の根源(アルケー)は水である」と語ってから、二千数百年。哲学は、ずっと世界の原理を明らかにしようとしてきたと思います。世界を貫いているロゴスを探求してきたと思います。

★しかし、今、ロゴスとアルケーの探求を、哲学は科学に譲ったかのようです。ビッグバンという始原や生命活動の根源を解明しようとしているのは、科学だからです。宇宙や生命が数式によって解き明かされるとしたら、ピタゴラスは正しかったことになるのでしょうか? また、魂さえも物質の世界のロゴスであるならば、デモクリトスエピクロスは正しかったことになるでしょうか?

★このようなことをとりとめもなく考えるのは、哲学者・鷲田清一の「折々のことば」(朝日新聞連載)に、とまどいを感じ続けているせいかも知れません。

★「折々のことば」は、鷲田・臨床哲学の集大成なのでしょう。しかしそれは、臨床哲学の末路にも見えるのです。「折々のことば」と巷にあふれかえる人生論との違いは、どこにあるのでしょうか?

★「こんな見方がありますよ」、「でも、こういう考え方もあるんですよ」と、「折々のことば」は今後も続いていくのでしょう。まるで「万物の尺度は人間(各個人)」というプロタゴラスの考えを証明するかのように。でもそれは、漂流する私たちを映しているのでもありますが。

★やはり二千数百年前に生きたブッダも、哲学者であったと思います。ただ、ギリシアの哲学者たちと違って、彼は、始原(アルケー)を求めないという点で、徹底していました。彼は真理=ダルマ(法)を理解したのですが、絶えず移りゆく現実そのものにダルマ(法)を観ました。現代風に言えば、世界のうちにある、無数の関係性とその変転をそのままに認識したと言っていいと思います。このロゴス(と言っていいかどうかわかりませんが)は、のちに、後継者たちによって「空」と言い表されました。

★「折々のことば」のような、関係性・複数性へと多様に分解した「哲学」は、ブッダ的なものへの、ぼんやりとした回帰なのかも知れません。でも、ダルマ(法)という徹底性は欠いています。そこで求められるのは、もはや「世界の原理」やロゴスではありません。それは、断念されています。求められるのは、結局、多様性を理解したうえでの「心の整理のしかた」になっていかざるをえません。

★その点で、『美術手帖』2016年11月号は興味深いものでした。「ZEN」(「拡張された禅」という意味で使われていました)が特集されていて驚いたのですが、今人々が求めているものがよく表れていたと思います。「穏やかで、安定して、美しく、シンプル」な心の状態が「ZEN」とされているのでした(サンフランシスコ禅センターのことば)。

★このような「ZEN」はよく理解できますし、それを求める気持ちは私の中にもあります。ただ、ロゴスの探求は放棄されていいのでしょうか? ブッダのダルマや「ZEN」を、社会や歴史のロゴスの探求へとつなぐ道はないのでしょうか?

★私たちは、歴史に翻弄され続けています。世界はますます混沌とし、現実は苛烈さを増していくように思われます。世界情勢も日本の社会も、ピタゴラスが言ったハルモニア(調和)にはほど遠いのです。それを、個々人が「ZEN」で乗り切るしかないとすれば、哲学は死んだも同然なのですが……。

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