古代〜現代【歴史における遺体・遺骨(ジャンヌ・ダルクと劉暁波)】
◆ネアンデルタール人から始まったとされる死者の埋葬は、人間にとって大変重要なものであり続けています。
◆葬送儀礼のあり方や遺体・遺骨・遺灰などの保管の仕方は、人間の歴史に深く関わってきました。
◆政治的権力や宗教に関わる事例もたくさんあります。
・古代エジプトの遺体保存(ミイラ)
・シャカの遺骨(舎利)の崇拝
・サンチアゴ・デ・コンポテラのヤコブの遺骨
・ゴアのザビエルの遺体
・レーニンなどの遺体の防腐処理による保管 など
■ここでは、ジャンヌ・ダルクと劉暁波に関する資料を載せます。
■二つの資料を通して、歴史における遺体・遺骨について、あらためて考えさせられると思います。
★資料1 ジャンヌ・ダルク[1431年5月30日刑死]
イギリス側はジャンヌの護送路や、さらに彼女を閉じ込めるための牢獄にも警戒を怠らなかった跡がうかがえますが、それはジャンヌが持つと噂された魔力を恐れたためでもありましょう。(中略)一般市民たちの好奇心に対しても、火刑を執行したイギリス側は手を打っています。すなわち、多くの証人が語るように、火刑の最中に火勢を一旦止めて、焼けた死体を見物人に示して、この娘が死んだことを確認させたことや、遺骸の灰を残らずセーヌ川に捨てさせた措置も、その効果を意図してのことでしょう。
(中略)
これはジャンヌの処刑時にすでに、ジャンヌを聖女視する風潮がルーアンの大衆の間に芽生えていたことを語るもので、イギリス側はジャンヌの遺骸が聖者の「遺物(ルリツク)」として崇敬の対象となることを防ごうとしたものでありましょう。
【高山一彦『ジャンヌ・ダルク』77〜78ページ(岩波新書、2005)】
★資料2 劉暁波(リウシアオボー)[2017年7月13日、仮釈放中に死去]
劉氏の遺族に近い支援者によると、中国当局は劉氏が亡くなった13日夜、劉氏の遺灰を海にまくことに同意するよう求めたが、遺族は反対したとされる。だが、最終的には「遺族の同意」をとった形で、遺灰は海にまかれた。
民主化運動の精神的支柱になっていた劉氏の死去を悼む動きは、中国内のネット上で隠語を使うなどして広がっている。当局は、国内に劉氏の墓ができれば、追悼する人々が集まり反政府運動につながりかねない、と警戒したとみられる。
【「朝日新聞」2017年7月16日付の記事】