中世 中央アジア・西アジア 【ティムールが、シリアで出会ったのは】

■14世紀末から15世紀初めにかけて、中央アジアサマルカンドを都とするティムール帝国は、驚くべき勢いで支配地域を拡大した。その領域は、東はトルキスタン東部・インド北西部から、西はイラン・メソポタミア小アジア東部にまで及んだ。トルコ語を話すモンゴル人ティムールが一代で築いた帝国であった。刃向かった者は徹底的に弾圧され、バグダードでは10万人、イスファハーンでは7万人が殺されたという。

 ティムールは、バグダードを占領した後、シリアに向かった。シリアでマムルーク朝と戦い、アレッポを占領してダマスクスに迫ったが、ここで講和した。

 シリアは、メソポタミア、エジプト、小アジア、アラビアの境界にあたり、古来いくつかの勢力がぶつかり交流する十字路であった。前13世紀にヒッタイトとエジプト新王国が戦ったところであり、前4世紀のアレクサンドロスイッソスの戦いもシリア北部であった。またアンティオキアは、異邦人へのキリスト教伝道の最初の拠点であった。ティムールがやってくる140年前には、マムルーク朝のバイバルスがモンゴル軍の西進を食い止めたところでもある。

 この時、稀代の征服者ティムールに招かれたのが、『歴史序説』で名高い学者イブン=ハルドゥーンであった。1401年のことである。イブン=ハルドゥーンはマムルーク朝の大法官だったのである。15世紀初めのイスラーム世界における「武」の第一人者と文の第一人者が、ダマスクス近郊で出会った。二人は35日間語り合い、ティムールは西方イスラーム世界の様子を知ったという。イブン=ハルドゥーンの歴史哲学のいくばくかは、ティムールに伝わったのだろうか? 古来歴史の変動の舞台となってきたシリアで二人が出会ったという事実は、たいへん興味深い。

 ティムールはシリアから小アジアへと向かう。ティムールがアンカラの戦いでオスマン帝国のバヤジット1世を破り捕虜としたのは、この翌年の1402年のことであった。

 ティムールは1405年明への遠征途上で、イブン=ハルドゥーンは1406年カイロで、その生涯を閉じた。二人の語らいは、イスラーム史に残る貴重な1ページとなったのである。


《参考文献》
 前嶋信次イスラム世界』(河出書房版世界の歴史8)
 佐藤次高編『人物世界史4』(山川出版社