<問いからつくる世界史・歴史総合の授業>(近代)【ペリー来航③[アメリカ大統領の国書]】

★ペリー来航に関する問題の3問目です。今回は4択の問題ではありません。

★1回目来航時のペリーの最大の目的は、開港を求める大統領フィルモアの国書を幕府に渡すことでした。その際、国書の言語と通訳をどうするかは、重要な問題でした。

★ペリー一行と幕府の外交交渉には、当然のことですが、異文化間コミュニケーションというテーマが含まれていたのです。今回は、このテーマを生徒たちに考えてもらうオリジナル問題です。日本史と融合させた、「考える世界史の授業」、「話し合う世界史の授業」の試みです。(なお、新科目「歴史総合」のあり方については、【ペリー来航①[軍人ペリー]】で触れています。)


問題3☆ [さらにプラスα]

 ペリーは、英文の国書では幕府側に理解されないと考えた。そこで、国書の翻訳を2種類用意した。ペリーが用意した2種類の翻訳とは何だったか。


◇生徒たちが考える時間・話し合う時間をとります。

◆一つはオランダ語版」でした。生徒たちも、比較的容易に答を出すと思います。アメリカ側は、当然のことながら、オランダと日本の交流を知っていましたし、幕府がオランダ語通詞を置いていることを把握していました。ペリー一行の旗艦には、オランダ語の通訳が乗船していました。

◆もう一つの答が出るまでには、少し時間がかかるでしょう。また生徒たちの状況によっては、途中でヒントを出すことが必要かも知れません。

◆もう一つは、「漢文版」でした。ペリーは、立ち寄った香港で、中国滞在20年のアメリカ人宣教師に「漢文版」を作らせ、旗艦にこの宣教師と中国人を同乗させていたのです。

◆ペリーたちが周到な準備をしていたことがわかります。一方幕府側は、浦賀奉行所のオランダ語通詞を補強していました。

◆なお国書は、洋上で幕府側に渡されたわけではありません。ペリーたちは久里浜に上陸し、浦賀奉行たちに国書を渡しました。上陸したのは約300人、来航後わずか6日のことでした。

◆幕府としては、国交のない国からの国書を受け取ること自体、異例のことでした。国書受理を決断した老中首座の阿部正弘は、この時34歳だったということです。


【ペリー来航①[軍人ペリー]】

※さらに考えたい方は、次のページをご覧ください。 ➡ 【アメリカ東インド艦隊、浦賀へ】

こんな考え方で書いていきます【<問いからつくる世界史の授業>について】