中世 東アジア 【北魏・孝文帝の漢化政策】

■農耕民ではない民族が、華北の農耕地帯に侵入するだけでなく、これを支配するようになった時、どのように農耕民(漢人)を統治すればいいのか。騎馬遊牧民鮮卑が建てた北魏の100年近い華北支配(439〜534)は、その最初の本格的試みであった。

 北魏は孝文帝(位471〜499)の時、均田制・三長制を実施し、漢化(中国化)政策を進め、華北の中心部洛陽に遷都した。これが教科書的な簡潔な説明であるが、その背景には少なくとも二つの重要なことがある。

 一つ目は、鮮卑は文字を持たず(遊牧民最古の文字は6世紀の突厥文字である)、漢人官僚の助けを受けながら西晋の統治体制を継承しなければならなかったことである。
 二つ目は、改革のレールは文明太后の時代に敷かれたことである。文明太后は、文成帝の皇后時代に雲崗石窟造営の中心になった人物であり、次の献文帝の時代、そして5歳で即位した孝文帝の治世の大半の時期、権力の中枢にあった漢人である。太后は、孫の孝文帝に漢人の教養を徹底的にたたき込んだという。。孝文帝が即位しても、親政は、太后の死去する24歳までは行われなかった。この間、政治上の決定はすべて太后が行っていたのである。均田制施行も、文明太后が決定したものであった。

 親政を開始して2年後(493)、孝文帝は洛陽遷都を強行した。孝文帝の大きな政治的決断であったが、胡族の色彩を払拭した中国王朝にという文明太后の方針を忠実に継承・発展させたものと言える。

 孝文帝による胡漢融合(混血も進んだ)の貴族制の試みは、その死後、中下層の胡族の反乱を招き、成功したとは言いがたい。しかし、その試みは隋・唐の時代を準備した。また、後の契丹・金・元・清の統治を考える上でも、漢民族そのものの多義性を考える上でも、たいへん重要である。

※同時代  西ローマ帝国滅亡(476)

《参考文献》
 松丸道雄ほか編『世界歴史大系・中国史2』(山川出版社
 礪波護・武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』(中央公論社版世界の歴史6)