古代 メソポタミア【太陰暦・週7日制・六十進法】

太陰暦も週7日制も六十進法も、古代のメソポタミアで成立しました。これらについての世界史の教科書の記述は簡単ですし、通常は授業で詳しく触れる余裕もありません。しかし、歴史的には極めて重要なものばかりです。それぞれの成立過程を、できるだけわかりやすくまとめてみます。


太陰暦

★月の満ち欠けを基にした暦です。人間は、古くから(多分旧石器時代から)月の満ち欠けの法則性に気づいていたでしょう。ただ現代では、天文ファン以外は月を眺めることが少なくなってしまいました。したがって、太陰暦については、きちんと確認しておいたほうがいいと思います。

★月は、①新月(見えない状態の月)➡②上弦月(🌓)➡③満月➡④下弦月(🌗)[➡新月]というサイクルを繰り返します。この1サイクルをひと月としたわけです。ちなみに、moon と month は語源が同じです。

★①から②、②から③、③から④、④から①への変化は、ほぼ7日です。これは神々の摂理であると考えられ、ここから7は聖なる数となりました。

★1サイクルは29.5日でしたので、1カ月を29日または30日として、12カ月を1年としました。そうすると、1年は354日となります。これが、シュメール人によって作られた太陰暦です。[イスラーム暦も太陰暦です。]

★ところが太陽の周期では1年が約365日ということもわかってくると、そのズレを補正するため、17年に9回閏月を設ける暦ができました(17年間に9回、13カ月の年があることになります)。この暦は、太陰太陽暦と呼ばれます。この暦も、シュメール人が作りました(新バビロニアで確立したという説もあります)。[元の授時暦は太陰太陽暦です。]

<週7日制>

■先に述べた、月の満ち欠けの7日ごとの変化から、1週という単位が考えられたとされています。この考え方はヘブライ人にも引き継がれ、『旧約聖書』の「創世記」冒頭の文章となりました。週7日制は、ユダヤ教キリスト教で決定的なものとなったわけです。なお、曜日に惑星の名がつけられるようになったのは、少し後の時代のようです。

<六十進法>

メソポタミアでも、最初に成立したのは十進法でした(楔形文字には、数字もありました)。なお、十進法は、人間の手の指の数が基になっています。[マヤの二十進法は、手と足の指の数が基になっています。]

◆十進法に加えて、六十進法が、太陽・月をはじめとした天体の運行を分析するために考えられました。天体の運行を円周で考え、その円周を分割して、天体の位置を地表との角度で表すという考え方になりました。そして、角度を表すためには、十進法よりも、約数が多い60という数を基準にしたほうが便利であることがわかったのです。たとえば、50や100の場合、3や6では割り切れません。十進法は、円周の分割には不便です。一方、60や120や180は、3、4、6、12、15などでも割り切れます。こうして、六十進法も定着していきました。

◆また60は、十進法の10と12カ月の12の最小公倍数でもありました。したがって、60もやはり聖なる数と考えられたようです。

◆やがて、六十進法は1日の時間の測り方にも使われるようになりました。(エジプトで使われるようになったという説もあります。)


【参考文献】
 永田久『時と暦の科学』[NHK市民大学テキスト、1989]
 永井俊哉「シュメール人はなぜ六十進法を用いたか」[www.nagaitoshiya.com/ja/2013]