【★世界史の授業を考える(ミニ授業の公開にあたって)】

<はじめに>

■本ブログは、日々の世界史の授業から出発し、さまざまなテーマで世界史を考えながら、日々の授業に戻っていくというスタイルをとっています。

■各テーマ史のややカタい内容も、その多くは授業と関わったものです。直接授業に取り入れた内容も、授業の言わば隠し味になっている内容もあります。

■今まで行ってきた授業の一部を「ミニ授業」として公開するにあたって、あらためて世界史の授業について考えてみました。私たちは、多くの困難を抱えています。ぶつかっている問題を見つめ直すことが、まずは大切だと思います。

<世界史の授業の現状>
■世界史の教科書には(特に世界史Bの教科書には)膨大な知識が詰まっています。したがって、授業では知識を教え込むことが中心になってきました。「現在と過去との対話」(E.H.カー)を授業で成り立たせるための工夫は、あまり視野に入ってこなかったと思います。むしろ、研究熱心な世界史の教員ほど、豊富な知識を一方的に教え込むことに情熱を傾けてきたのではないでしょうか。

■受験が世界史学習のおもなモチベーションになっている場合はなおさらです。知識を効率的に教え込むことが、授業の目的になってしまいます。いわゆる進学校では、教科書をほとんど使わず、プリントの空欄にひたすら語句を書かせていくような授業も行われています。教科書をほとんど使わないのは、不遜なことのように思われるのですが。

進学校に限らず、プリントによる授業が主流になっていると思われます。残念ながら、授業内容の充実のためというより、進度を速めるためのプリント使用という面が強いようです。授業プリントの中味にも問題があります。市販のサブノートのようなプリントが多く、生徒のためというより、授業者自身の知識整理プリントになっている場合があります。一方で非常に詳しい授業プリントも見かけますが、この場合は授業者の研究ノートのようになってしまいます。

■プリントによる授業を一概に否定するわけではありません。教科書をかなり使う場合もあるでしょうし、授業の進め方はそれぞれ工夫されているとは思います。しかし、進度を速めるためのプリント使用は、どうしても弊害をともないます。生徒たちは空欄に語句を埋めていくという学習を続けることになります。その結果、ほとんどの生徒は、空欄の重要語句の暗記という学習スタイルに傾斜していかざるをえません。そうなると、生徒たちは教科書の太字の部分だけを見るようになり、文章を読んで理解しようとはしなくなります。教員も生徒も、世界史を学ぶ喜びからは遠ざかっていきます。

■「過去との対話なんて高校の授業では無理」と考える教員が多いと思います。私もそう割り切ったほうがどんなにラクだったことでしょう。私は教科書・資料集を使った板書という授業スタイルをとってきましたが、教え込みと「過去との対話」の間で悩み続け、試行錯誤を繰り返してきました。

<エピソード紹介型話術>
■授業技術としては、話術だけが磨かれていくようなことも生じてきました。巧みな話術とエピソードの紹介によって、教え込み型授業が緩和される場合も多かったと思います。生徒たちの興味も惹きつけてきました。私も、エピソードをできるだけ授業に組み入れてきたほうだと思います。

■ただ、授業の自己点検がなされないまま「エピソード紹介型話術」に寄りかかっていくのは、かなり危険です。なぜなら、授業内容が更新されなくても(新しい研究成果を取り入れなくとも、あるいは教える側の歴史の見方が深まらなくても)、一見「おもしろい」授業ができてしまうからです。自戒を込めて言うのですが、知らず知らずのうちに世界史教員としての退化が始まっている場合もありますので、注意しなければなりません。

<授業をどうつくるか>
■私が少しずつ考えるようになった工夫は、以上のような現状をわずかでも変えるためのものです。知識を羅列的に教え込む授業から脱却するために、授業内容と授業技術の両面で工夫が必要だと思うようになりました。「過去との対話」を成立させるための工夫です。それは、「授業をつくる」ということにほかなりません。「授業をする」あるいは「教える」だけでなく、生徒たちと「授業をつくる」という意識を持つことが大切だと思うようになりました。

■多くの方々がいろいろな試みをされていると思いますが、私が実際に行っている工夫をいくつかあげてみます。

 ①「なぜ」、「どのように」という問いを生徒たちと共有する。
 ②ある歴史事象に複数の角度から光を当てる。
 ③文化を単独で扱わず、政治・経済・国際関係を含めた時代全体の中に位置づける。
 ④古代と現代、ヨーロッパとアジアなど、異なる時代・地域を比較したり関連づけたりする。
 ⑤知識を確認するための質問だけでなく、考えて答を出すような質問を工夫する。その際、短くても話し合う時間をとる。

■やや抽象的ですが、学ぶ楽しさを感じてもらうことに主眼をおいています。(②や③は本ブログ全体の特色になっています。)これらを授業の中で具体化するのは、容易ではありません。しかし、たとえ小さな工夫であっても、生徒たちの反応が急に良くなったりします。
 
 ・②や③からは驚くような歴史的事実が浮かび上がりますが、生徒たちと驚きを共有するのは楽しいものです。またそれが、生徒たちと「授業をつくる」ことの土台となっていきます。

 ・⑤は毎時間行えるわけではありませんが、とりわけ工夫しがいがあります。

 ・①と⑤は連動しています。教える側の歴史への問いかけが、生徒たちに提示する問いの工夫につながっていくと思います。(*)

■細部の小さな工夫を重ねていくうちに、授業内容と授業技術は一体のものだと思うようになりました。わずかな技術的工夫にも、歴史観や教育観が表れるものだと思います。「神は細部に宿りたもう」という美術史家ヴァールブルクの言葉がありますが、これは授業にも当てはまるかも知れません。

■なお、授業と連動しますが、復習問題、定期テスト問題、補助教材としてのプリント等の充実も、たいへん重要です。授業で小さな工夫を積み重ねていると、これらの作成にあたっても、単なるコピペでは満足できなくなります。生きた授業が行われている時は、復習問題や定期テスト問題にさえキラリと光るものが現れるものだと思います。

<授業の再現と公開>
■すでにさまざまの講義がネット上に公開されています(**)。屋上屋を架すことを恐れますが、ささやかな試みを知っていただくため、実際の授業の一部を、「ミニ授業」として再現してみることにしました。短い時間で読めるようにしてあります。読んでいただければ、上記の①〜⑤がどのように具体化されているか、ある程度わかるのではないかと思います。

■再現した授業は、大学入試を意識した授業から独自のテーマ史の授業まで、ヴァラエティに富んでいます。世界史A・世界史B両方で実施したものも、片方だけで実施したものもあります。予備校での授業やある高校での「地域文化研究」の授業も含まれています。

■テーマ史でも「ミニ授業」でも、あるいは復習プリントでも、通常の世界史とはかなり異なるアングルで書かれている場合があります。しかし、奇を衒った授業を行ってきたわけではありません。スタンダードな授業の流れの中に上記の①〜⑤の観点をどう組み入れていくか、そのことに腐心してきました。一見特殊な切り口から入っても、歩んでいくと必ず共通の広場に出るものです。

(*)いわゆるアクティブ・ラーニングを試行してきたことになります。実践の具体例は、次のページをご覧ください。(2015年9月および2017年9月追記) ➡ 【<問いからつくる世界史の授業>について】【世界史の授業に「考える活動」を!】

(**)「世界史講義録」はその代表的なもので、<エピソード紹介型話術>がよく表れています。この講義録から生まれた『「なぜ?」がわかる世界史』は、おもしろい読み物になっています。しかし、前近代篇では、司馬遷史記』の<本紀>の意味がよく理解されていないようでした。また、不思議なことですが、中世ヨーロッパ文化について述べられていませんでした。近現代篇でも、残念ながら、文化は非常に手薄です。文化を抜かして<「なぜ?」がわかる>というわけにはいかないと思います。

「ミニ授業」は、「ネアンデルタール人」から、順次公開中です。→世界史ミニ授業(先史)【ネアンデルタール人(埋葬・花・謎)】

世界史A・Bの現状と大学教育・教員養成については → 【高校世界史の現状と大学教育】

世界史Bの授業内容の工夫を、復習プリントをもとに紹介しています。(2013年9月追記) → 復習プリントから考える世界史Bの授業(先史)【農耕・牧畜の始まり】