世界史 こんな「考える授業」をしてみました④【「パジャマ」から考える言語の授業】
■言語や文字の歴史は、世界史の中の重要な要素ですが、必ずしもていねいに取り上げられていないと思います。
■幼少期に外国で暮らした経験をもつ高校生や外国人と接している高校生が以前よりは増えているものの、多くの生徒は「学校英語」を中心に学んでいるため、他の外国語の存在に無関心です。
■このような状況ですから、ラテン語、ペルシア語、アラビア語、スワヒリ語、ウルドゥー語などを、暗記ではなく理解してもらうのは、なかなかたいへんです。
■今回の「考える授業」は、ウルドゥー語を例とした、言語の授業の試みです。
★「異文化との出会い→文化の融合」という視点を確認します。この視点は、アルファベットの成立、仏像の制作をはじめとして、古代から繰り返し触れておく必要があります。
★ウルドゥー語について基本的なことを説明したあと、接しやすいように、一見クイズのような問いから入ります。
【問1】「ウルドゥー語は初めて聞いたと思いますが、実は、みなさんが知っているウルドゥー語があります。次の①〜④の語の中で、ウルドゥー語はどれでしょう?」
① シュガー ② バザール ③ パジャマ ④ カステラ
★答えは、③のパジャマです。
★答えを確認すると同時に、①・②・④の語について解説しておくことが大切です。②では「スーク」も確認できますし、④では「カスティーリャ王国(地方)」も確認できます。
★このあと、授業は本筋へと入っていきます。
【問2】「インド北西部で成立したウルドゥー語の単語の一つ、パジャマがどうして日本語の中にも入るようになったのでしょうか?」
★生徒たちはキョトンとするかも知れません。生徒たちが考えつかない時は、次のようなヒントを出します。
「ヒントは、英語です。パジャマと言う語は、英語に入って、世界中に広まるようになりました。」
★ムガル帝国時代のインドにやってきたイギリス人が、現地のパジャマと呼ばれる服を気に入り、イギリスに伝わったことを話します。
★こうして授業は、イギリスのインド支配へとつながっていくことになります。
★とりあえずは、イギリスの3つの拠点の位置と、それらがアウラングゼーブ帝の時代までに獲得されたことを確認しておきます。
世界史 こんな「考える授業」をしてみました③【ラヴェンナとユスティニアヌス大帝のつながりは?】
■ビザンツ帝国(ユスティニアヌス大帝の時代までは「東ローマ帝国」と呼んだほうが適切ですが)の授業でラヴェンナを取り上げることは、標準的な授業ではないと思われるかも知れません。
■しかし、以下の文章を読んでいただければ、ごく標準的な内容(旧西ローマ帝国領の一部の回復)の確認であることがわかると思います。
★ユスティニアヌス大帝の授業で、サン=ヴィターレ聖堂のモザイク壁画を見ます(山川の「詳説世界史B」では134ページ)。
★この時、サン=ヴィターレ聖堂がラヴェンナにあることを確認させます。そのあと、次の質問に移ります。
【問い】「ラヴェンナはどこにある町ですか?」
※ラヴェンナは、「ピピンの寄進」で出てくる地名です。通常の授業では、ビザンツ帝国の少し前に取り上げますので、「イタリア(半島)」と答えられる生徒がいると思います。そして、メインの質問に入ります。
⇓
【問い】「ユスティニアヌス大帝と妃のモザイク壁画が、どうしてラヴェンナの聖堂に描かれたのですか?」
※この問いに答えられれば、ユスティニアヌス大帝の事績を十分に理解していることになります。「ピピンの寄進」で考えようとすると、答えが出てきません。
※生徒たちが困っている場合は、もう一度、「ユスティニアヌス大帝時代の領土」の地図を確認して、考えさせます。
※「ユスティニアヌス大帝が東ゴート王国を滅ぼして、イタリア半島を取り戻したから」というのが、最も簡潔な答えになります。
⇓
★ラヴェンナは東ゴート王国の都だったこと、ユスティニアヌス大帝はここをイタリア半島支配の拠点としたことを説明します。
★可能ならば、ビザンツ帝国がやがてイタリア半島を失ったこと、ラヴェンナはランゴバルド王国領になったことを付け加えます。こうして「ピピンの寄進」に接続して終われば、理想的だと思います。
古代〜現代【共和政を理解しづらい生徒たち −政体の理解の重要性−】
◆世界史教育において、政体は必ずしも自明なものではありません。教員も、きちんとした定義はしないまま、専制君主政、共和政などの用語を使っているのが現状だと思います。
◆一般的な使用では錯綜が見られ、学問上も諸説がありますので、政体の理解は簡単ではありません。
◆また生徒たちは、共和政をなかなか理解できないようです。カルチャーセンターで教えてみてわかったのですが、この点は大人の方も同じでした。天皇制の伝統があるためでしょう、日本人は共和政になじみがないのです。
◆ただ、このことは世界史の理解に大きな障害となります。たとえば、ローマ史ですが、共和政から元首政への転換の意味が理解できなくなります。また、17世紀イングランド史、フランス革命史、19世紀フランスの政体の変遷などの理解も困難になっていると思います。
◇私の授業では、「支配者がだれか、どういう組織か」に重点をおきながら、下記のように分類しています。
◇世界史学習上の必要性から考えたもので、暫定的なものです。また、学問上の厳密さには欠けるところがあるかも知れません。
【政体】
★大きく二つに分類されます。
〇君主政:王や皇帝をおく政治体制(王政、帝政)
〇共和政:王や皇帝をおかない政治体制
*共和政の場合、現在は、多くの国が大統領制をとっています。
【君主政】
★大きく二つに分類されます。
A 専制君主政:君主が統治に直接関わります。
(ほとんどの帝政や絶対王政がこのタイプです。初期のカリフ制やスルタン制も含まれます。)
B 立憲君主政:憲法や議会・内閣が統治の中心になり、君主の権限は大きく制限されます。
(17世紀末のイングランドから登場しました。)
*AとBの間には、さまざまなヴァリエーションがあります。たとえば、明治憲法体制は、そのヴァリエーションの一つです。
【以上の分類に関連する事項】
■貴族政や寡頭政は、君主政と共和政の中間形態になります。僭主政は、一応君主政に分類しています。
■民主政(治)は、君主政・共和政とは別の概念ととらえています。
■したがって、君主政においても共和政においても、民主政治は可能です。また、君主政においても共和政においても、専制政治・独裁政治は出現します。
■なお、「〇〇帝国」と呼ばれても、帝政とは限りません。たとえば、イギリスは立憲君主政ですが、19世紀半ばから後半は、その支配地域の広大さと経済的繁栄から、the British Empire (大英帝国)と呼ばれました。
■蛇足ですが、三権分立制(政治権力を三つに分け、互いにチェックさせる制度)は、専制政治・独裁政治を防ごうとするしくみです。
古代〜現代【歴史における遺体・遺骨(ジャンヌ・ダルクと劉暁波)】
◆ネアンデルタール人から始まったとされる死者の埋葬は、人間にとって大変重要なものであり続けています。
◆葬送儀礼のあり方や遺体・遺骨・遺灰などの保管の仕方は、人間の歴史に深く関わってきました。
◆政治的権力や宗教に関わる事例もたくさんあります。
・古代エジプトの遺体保存(ミイラ)
・シャカの遺骨(舎利)の崇拝
・サンチアゴ・デ・コンポテラのヤコブの遺骨
・ゴアのザビエルの遺体
・レーニンなどの遺体の防腐処理による保管 など
■ここでは、ジャンヌ・ダルクと劉暁波に関する資料を載せます。
■二つの資料を通して、歴史における遺体・遺骨について、あらためて考えさせられると思います。
★資料1 ジャンヌ・ダルク[1431年5月30日刑死]
イギリス側はジャンヌの護送路や、さらに彼女を閉じ込めるための牢獄にも警戒を怠らなかった跡がうかがえますが、それはジャンヌが持つと噂された魔力を恐れたためでもありましょう。(中略)一般市民たちの好奇心に対しても、火刑を執行したイギリス側は手を打っています。すなわち、多くの証人が語るように、火刑の最中に火勢を一旦止めて、焼けた死体を見物人に示して、この娘が死んだことを確認させたことや、遺骸の灰を残らずセーヌ川に捨てさせた措置も、その効果を意図してのことでしょう。
(中略)
これはジャンヌの処刑時にすでに、ジャンヌを聖女視する風潮がルーアンの大衆の間に芽生えていたことを語るもので、イギリス側はジャンヌの遺骸が聖者の「遺物(ルリツク)」として崇敬の対象となることを防ごうとしたものでありましょう。
【高山一彦『ジャンヌ・ダルク』77〜78ページ(岩波新書、2005)】
★資料2 劉暁波(リウシアオボー)[2017年7月13日、仮釈放中に死去]
劉氏の遺族に近い支援者によると、中国当局は劉氏が亡くなった13日夜、劉氏の遺灰を海にまくことに同意するよう求めたが、遺族は反対したとされる。だが、最終的には「遺族の同意」をとった形で、遺灰は海にまかれた。
民主化運動の精神的支柱になっていた劉氏の死去を悼む動きは、中国内のネット上で隠語を使うなどして広がっている。当局は、国内に劉氏の墓ができれば、追悼する人々が集まり反政府運動につながりかねない、と警戒したとみられる。
【「朝日新聞」2017年7月16日付の記事】
世界史 こんな「考える授業」をしてみました②【中国史:南宋をしっかりとらえる】
☆宋代は中国史の画期なのですが、その授業はけっこう難しいと思います。位置づけを明確にしてきちんと取り上げなければなりません。そうしないと、生徒たちの中では、隋・唐と元・明・清の間に埋もれてしまうかも知れません。
☆そのような反省も踏まえたうえでの、南宋を考える授業です。
★南宋の年代(1127〜1276)を確認します。
⇓
「南宋は何年続きましたか?」
⇓
「金の圧迫を受けながらも、150年続きました。すぐに滅びたようなイメージがあるかも知れませんが、そうではないんですよ。」
【問い】「どうして南宋は150年も存続できたのでしょう?」
*生徒たちはポカンとするかも知れません。特に、このような問いに慣れていない場合は。
★「もちろん紹興の和議を結んだためではありますが、ここでは経済的・地理的要因を考えてみてください。もう一度、金と南宋の地図をよく見てみてください。」
⇓
ここから、「南宋が経済活動の中心である江南を押さえていた」という答えを導きます。
江南への人口移動にも触れる必要があります。
★このような授業の中で、囲田や占城稲も、「蘇湖熟すれば天下足る」も、ひいては元〜明代の経済発展も、きちんと理解できるようになると思います。
世界史 こんな「考える授業」をしてみました①【アウグストゥスの元首政】
★今回は、確認のための基礎的な「考える授業」です。【授業に「考える活動」を組み込む】であげた、二つの目標のうちの1に当たります。
★【問3】がメインになります。「教科書のあるページの内容と別のページの内容を結びつけて理解すること」を目標にした問いです。
★したがって、他のテーマでも、すぐ応用できると思います。
【問1】「アウグストゥスの統治のしかたを何といいますか?」
*元首政あるいはプリンキパトゥスという答えを求めています。
⇓
【問2】「元首政(プリンキパトゥス)とは、どういう統治体制のことですか?」
*なかなか答えられなければ、「教科書を見てもいいですよ」と話します。
⇓
【問3』「どうして、アウグストゥスは元首政(プリンキパトゥス)という統治体制をとったのですか?」
*答えとして求めているのは、「カエサルの政治と共和派による彼の暗殺を踏まえ、元老院などを尊重するかたちをとった」という内容です。
*なかなか答えられなければ、「教科書を見てもいいですよ」と話します。
*話し合う時間をとってもかまいません。
⇓
【まとめ】<共和政から君主政へ>というローマ史の大きな流れを確認します。(元首政は、君主政の一形態として押さえています。)
★【問3』は、「山川・詳説世界史B」であれば、44ページの内容と43ページの内容を関連させて理解することを求めています。
★今回は比較的簡単な「関連の理解」ですが、このような理解のしかたを生徒たちに徹底させることが大切だと思います。それが、「考える世界史の授業」の土台となります。
★新科目「世界史探究」に向けて −「考える世界史の授業」を!−
◆「アクティブ・ラーニング」という語が独り歩きしている印象は否めませんが、授業のありかたを考え直すきっかけになっているとは思います。
◆しかし、「歴史=暗記」という学習から、具体的にどうやって脱皮していけばいいのでしょう?
◆たとえば、膨大な知識の習得を目指す「世界史B」の授業で、「考える」、「考えを発表する」という学習活動は可能でしょうか? 以前は難しいと思っていましたが、いろいろ試行錯誤するうちに、可能だと考えるようになりました。
◆2022年度からの新科目「世界史探究」や「歴史総合」の授業では、従来よりも「考える活動」が重視されるはずです。また、2021年からの新しい共通テストでも、一定程度、思考力をみる出題がなされるでしょう。
◆したがって、現行の「世界史B」・「世界史A」の授業にも、「考える活動」を組み込んでいかなければなりません。
◆そこで、「考える世界史の授業」の例を、何回かにわたり書いてみることにしました。机上のプランではなく、実際に行った授業をもとにしています。
◆<問いからつくる世界史の授業>のシリーズを発展させたものになります。<問いからつくる世界史の授業>と異なる点は、「なぜ?」という問いを中心にしていることです。
◆ただ、高校教育の現場の状況を考えると、また次期教育課程の実施状況を想定してみても、「革命的な」取り組みを求めることは難しいと思います。そこで、「通常の授業時間の中で、考えることをうながす工夫」に、焦点を絞ってみました。
◆生徒たちの状況にもよりますが、1コマの中で10分から15分程度使えば実施できるものを書いていく予定です。2週間に1度でもそのような授業を行うことができれば、教師も生徒も変わっていくと思います。
◆もちろん、話し合いや発表の時間を十分にとったり、発展的な解説をしたりすれば、1コマ全部必要になる場合もあるでしょう。
■シリーズ「考える世界史の授業」では、生徒たちの「理解」や「探究」、「発見」のために、教える側で「なぜ?」「どうして?」という問いを準備します。
■どんな問いを準備するかが重要です。また、問いかけのし方、ヒントの出し方、生徒の考えの受けとめ方、解説のし方など、工夫すべきことがたくさん出てくるでしょう。多角的な歴史理解のためには、今まで使われていない史料の教材化も必要になるかも知れません。
■このような授業がある程度定着すれば、生徒たちから「なぜ?」、「どうして?」という問いが出てくるようになると思います。
◆なお、紹介する授業は固定的なものではありません。さまざまなヴァリエーションが可能です。さまざまなヴァリエーションを創っていくことが、授業という営みの楽しさでもあります。
◆新科目「世界史探究」・「歴史総合」の実施まで、それほど余裕があるわけではありません。現行の「世界史B」や「世界史A」の中で、新しい試みを行いながら準備していく必要があります。
◆新しい科目が名ばかりになり、「探究」でも「総合」でもなくなるような悲喜劇が起こらないことを願っています。
◇次回は、<カエサル〜アウグストゥス>をテーマとした「考える授業」です。最初ですので、「基本的な理解」を中心にした授業になります。➡ 【こんな「考える授業」をしてみました①】