■アメリカ合衆国の光と影 [史料とコメント](その2)

アメリカ史を考えるための史料 Ⅵ〜Ⅺ>


Ⅵ ミシシッピ州憲法(1890)

第8条 207項 白人と黒人の子どもたちには、それぞれ人種によって分離された学校を設ける。

第14条 263項 白人が、黒人、白人と黒人の2分の1の混血、あるいは黒人の血が8分の1以上混じった者と結婚することを、違法かつ無効とする。

 【歴史学研究会編『世界史史料7』(岩波書店)より】

南北戦争(1861〜65)後の合衆国憲法修正で黒人奴隷制度が廃止されたにもかかわらず、南部各州では差別と隔離が進行しました。投票権さえ奪われました。これらの法令をジム・クロウと総称します。そして1896年、連邦最高裁判所判決は、南部各州の人種差別制度を認めたのです。

★きわめて重要な点ですが、19世紀末に、人種差別制度は再構築されたのでした。授業で取り上げる際も、シェア・クロッパー制だけでは十分ではないでしょう。

★その解決は、1950年代からの公民権運動を待たなければなりませんでした。

★なお、クー・クラックス・クランが組織されたのは、1868年でした。


Ⅶ 「自由の女神」像の台座に刻まれた詩(1903)

 汝[ヨーロッパ大陸]において倦み、貧しく、自由の息を求める者たちの群れを、汝の賑わいの岸辺に打ち捨てられし敗残の者たちを、嵐に追われた家なき者たちを、わがもとに送りつけよ。われは、黄金の扉のかたえに、わが灯を掲げよう。

 【有賀夏紀・油井大三郎編『アメリカの歴史 テーマで読む多文化社会の夢と現実』(有斐閣)より。一部表現を改めてあります。】

★詩人エマ・ラザルスの詩です。

★「自由の女神」像は、フランス人彫刻家 F.バルトルディによって造られました。1886年のことです。バルトルディの熱意にもかかわらず、当初アメリカ側の関心は低く、資金難が続き、完成まで10年がかかりました。

★ただ、米仏両政府の取り決めで造られたわけでなかったことは、重要に思われます。

★20世紀に入ってから、「世界中からの移民を歓迎する<自由の女神>」というイメージが形成されていきました。東欧・南欧からの移民が激増した時期以降のことです。そして、移民には、迫害を逃れたユダヤ人も含まれていました。詩人エマ・ラザルスもユダヤ人でした。

★ただ、当時「自由の女神」が迎えたのは、大西洋を渡ってくる移民たちだけだったのかも知れません。すでに1882年、排華移民法(中国人移民禁止法)が成立していたからです。そして、1924年には、日本からの移民も禁止されることになります。


Ⅷ 日系人の強制収容(1942)

<西海岸防衛司令部ドゥイット司令官からスティムソン陸軍長官への覚書>

 陸軍長官は、西部作戦地区の戦闘地域内に軍事地域を指定し、陸軍長官の裁量に基づいて、その地域からすべての日本人やすべての敵性外国人を排除する指令と権限を、管轄の軍当局が現実かつ潜在的サボタージュやスパイ、第5列[裏切り]の活動行うという疑いをかける理由のあるあらゆるその他の人間を排除する指令と権限を、大統領から獲得すること。

 【歴史学研究会編『世界史史料10』(岩波書店)より。一部表現を改めています。】

★このような要望をもとに、フランクリン・ローズヴェルト大統領は、大統領令を発して、日系アメリカ市民約12万人の強制収容を行いました。1942年2月19日のことですから、日米開戦後3カ月という時期でした。

★史料に「すべての敵性外国人」とありますが、ドイツ系市民、イタリア系の強制収容は行われませんでした。

★戦後40年近くたった1988年、連邦議会は強制収容を「戦時ヒステリーと人種差別にもとづく誤り」と認め、レーガン大統領(共和党)が正式に謝罪しました。


Ⅸ ピーター・G・ボルン「人間、ストレス、ベトナム」(1970)

 ベトナム戦争には、従来のあらゆる戦争にも共通して当てはまる面と、ベトナム戦争だけの特異な面とがある。ベトナム戦争における、アメリカの社会的反応を従来にくらべて変えさせる作用をしたもっとも重要な政策決定は、交代制である。これは、あらゆる兵士に対して12ヵ月間(海兵隊の場合は13ヵ月間)のベトナム勤務が終われば、アメリカ本国へ帰還させることを保証したものである。(中略)[戦闘が]アメリカへ帰還する日がやってくるまで感情的にも肉体的にも生き残ろうとする、各自のきわめて個人的な戦いになったということである。
 兵士にとって、身にふりかかる肉体的不快や危険に気をとられているうちは、道徳的な問題や政治的問題を考えることは意味をもたない。彼は、本国の戦争論議や政府の政策と自分のベトナム体験との矛盾など思いわずらうことなく、それを無視したりする。
(中略)
 彼は、ベトナム戦争の結末については大きな関心がなく、ベトナムを離れる日には、「自分の負担は終わった、ベトナムのことなどもう二度と考えたくない」という気持ちになる。

 【丸山静雄編『ベトナム戦争』(ドキュメント現代史14、平凡社)より。一部表現を改めてあります。】

★ボルンは精神医学者で、ベトナムに派遣された医学研究チームに参加し、戦争が個々の人間と社会に及ぼす影響を調査しました。史料は、その報告書の一節です。

ベトナム戦争(1965〜73)では、5万人以上のアメリカ兵が死亡しました。帰還した兵士たちのなかには、PTSDに苦しむ人たちが数多くいました。ベトナムの体験を忘れることはできなかったのです。

ベトナム戦争アメリカ社会に大きな傷跡を残しましたが、その後も、湾岸戦争(1991)、同時多発テロ(2001)→アフガニスタン攻撃(2001)、イラク戦争(2003)と、戦争・事件が続いてきました。

★なお、ベトナム戦争中、沖縄はB52戦略爆撃機の発進基地、ジャングル戦の訓練場となりました。アメリカの敗色が濃くなった1972年5月まで(太平洋戦争末期から27年間)、沖縄はアメリカ軍政下におかれていたのです。


Ⅹ シャーリー・チザム「今日のアメリカにおける黒人女性」(1974)

 ますます多くの黒人女性が、黒人解放運動で十分に貢献するには、まず女性として解放されることが重要だと感じるようになっています。黒人男性のみならず男たちは皆、と言ってまずければ、たいていの男たちは女たちを、背後に控えているのが義務で、家事をする人間というステレオタイプで見ています。女は料理をし、掃除をし、子供を産み、いっぽう栄光は、すべての男たちにとっておかれます(笑い)。
 黒人女性は公民権運動も、男性による抑圧の一つのありかただと指摘しています。いささかの例外はありますが、黒人女性が、闘争の前線で積極的な役割を担っていることはありません。コレッタ・キング[キング牧師の妻]とか、キャサリン・クリーヴァー[エルドリッジ・クリーヴァーの妻]、ベティ・シャボズ[マルコムXの妻]は、それぞれ夫の威光を受けて前面に出てきたのです。それでも黒人女性の抑圧状態をよく知っていますから、かれらは解放闘争でもっとも強力な人員になっています。
(中略)
 黒人女性は、二つの点で差別される社会に暮らしています。白人女性と同じ条件で論じられることはありません。黒人女性にマイナスに機能する人種の点、性の点で、それに伴う心理的、政治的影響があります。黒人女性は文化的抑圧に押し潰され、合法的な権力構造によって不当に扱われています。これまでのところ、黒人運動も女性解放運動も、、女性である黒人のジレンマを正面からはっきりと取り上げたことはありません。個人女性が直面する問題を無視してきたのか、それとも対処する能力がないのか、その結果として、今日、黒人女性が自分で社会的、政治的に積極的になってきました。
 黒人女性が新しい姿勢を取るようになっているのは明らかです。その姿勢は、やがて将来、政治的結果を生み出すでしょう。

 【荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』(岩波文庫)より。一部表現を改めてあります。】

★私などの黒人解放運動の見方の盲点をつくスピーチです。

1924年ブルックリンに生まれたシャーリー・チザムは、1968年、黒人女性で初めての下院議員になりました。

★このような文章を読むと、バス・ボイコット運動(1955)のきっかけをつくった黒人女性ローザ・パークスの勇気ある行動は、特筆すべきものであったことがわかります。

★「ミシェル・オバマ待望論」というものがあるそうです。将来彼女が大統領になる可能性も、ゼロではないかも知れません。


Ⅺ フーリア・アルヴァレス「わたしもまた、アメリカをうたう」(2002)

 わたしが育ったところ[ドミニカ共和国]は、抑圧的で危険な独裁者が権力を握っていたところでもあった。社会科の時間、ある生徒が、独裁者のトルヒーヨを、我が国のほんとうの父親である、と讃えた作文を書いた。先生は、この国には父親はたくさんいます、トルヒーヨはそのひとりにすぎません、と感想を述べた。生徒は、軍の将軍の息子だったから、家に帰ると父親にそのことを報告したのだろう。その晩のうちに、その先生と奥さんと幼い子どもふたりの姿が消えた。
 (中略)
 1960年(10歳の時)、トルヒーヨに反対するわたしの父親の地下活動が明るみに出て、急遽、国を出ざるをえなくなった。アメリカの土を踏んだとたん、わたしたちはいきなり、ひどい訛りの英語を話す「スピック」[スペイン系アメリカ人に対する侮蔑語]、お金も展望もない移民になっていた。一晩で、国も、家も、親戚も、言語も、なにもかもをなくした。
 (中略)
 その頃のアメリカは、自分たちとちがう人間をあまり歓迎しない、皮膚の色のちがう、話す言葉が英語のようではない人間たちには、冷たい時代だった。生まれて初めて、偏見の目で見られることを、校庭で意地悪されることを、わたしは体験した。まるでちんぷんかんぷんの言語と文化と格闘した。
 (中略)
 きょうだいとわたしは、ふたつの世界、ふたつの価値観、ふたつの言語、ふたつの慣習のなかで、立ち往生した。これが、わたしたちに課せられていた難題だった。子どもの頃の昔の世界とはちがう新しい世界にやってきた移民たちは、たいてい、このことに直面させられていた。昔からの伝統なりルーツとつながりを保ちつつ、なおかつ、新しい国で豊かに生きるにはどうしたらいいか? 異なるふたつの世界や価値観は対立しあい、ときにはいがみあってもいるが、それをどのように処理すれば、もっと大きな、卑屈でない人間になれるものなのか?
 (中略)
 しかし、ときには、こういった苦しいことの数々が、大きな人間に自分をつくっていく機会になるものだ。わたしはハイブリッドになった−もともとの自分やホームタウンやホームランドから遠く離れたところを旅する者みんながそうなるようにである。わたしは、メインストリームのアメリカ人の女の子でも、完全にドミニカ人の女の子でもなくなった。でも同時に、無性にどこかに属したかった。こんな強烈な孤独と願望がわたしを本にみちびいた。
 (中略)
 わたしはそんなふうにして、大きく開いた文学のドアから、いよいよこの国のなかにはいった。ミスター・ホイットマンを読むことで、アメリカの約束を聞き、新しい国に恋をした。「わたしにはアメリカの歌うのが聞こえる、さまざまな喜びの歌が聞こえる」、ミスター・ホイットマンはそのように歌い、さまざまな種類のものがメインストリームにるつぼのように溶けていくということについては、異議を唱えていた。(中略)「わたし自身の多様性を拒むものをわたしは拒む。」
 (中略)
 自由の国はさまざまな不平等や欺瞞から自由ではないのだ、と知った。そういう間違いは人間にはつきものなのだった。自由とは、国のかたちをつくる機会があるということだった。いまだおこなわれたことのない進行中の実験に参加して、たくさんのひとたちのなかから、みんなに自由と正義をもたらすひとつの国をつくることなのだった。

 【アメリ国務省国際情報プログラム局編『私たちはなぜアメリカ人なのか』(青山南訳、ゆまに書房)より。一部表現を改めています。】

★フーリア・アルヴァレスは作家・詩人。

★本書には、15人の書き手のアメリカへの思いが収録されています。まさに、アメリカの豊かな多様性が示されていました。ブッシュ政権イラク攻撃を準備していた時期に、国務省の一部局がこのようなすばらしい本を編集したことに驚かされます。

■アメリカ合衆国 の光と影[史料とコメント](その1)

■就任したばかりのトランプ大統領のニュースを見ない日はありません。

アメリカ社会の分断はおさまっていくのでしょうか? 2017年は、やがて、世界が混乱するきっかけになった年と位置付けられることになるのでしょうか?

トランプ大統領の登場は、私に「もう一度アメリカ史をよく勉強しなければ」という気持ちを起こさせました。

アメリカ史を再考するため、私なりに11の史料をピックアップしてみました。もちろん、これだけでアメリカ史全体がわかるわけではありませんが、アメリカ史のさまざまな要素に目配りしたつもりです。

■トランプ氏に大統領としての資質はないと思いますが、大きく見れば、「トランプ現象」はアメリカ史に何度か現れたうねりの一つかも知れません。

■簡単なコメントを付してあります(★の部分)。



アメリカ史を考えるための史料 Ⅰ〜Ⅴ>



Ⅰ アメリカ独立宣言(1776)

 われわれは、自明の真理として、すべての人は平等に造られ、造物主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され、そのなかに生命、自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。また、これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織されたこと、そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形体といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、かれらの安全と幸福をもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし、また権限の機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。

 【『人権宣言集』(岩波文庫)より】

★現在はさまざまな訳がありますが、よく知られた、やや古い訳にしてみました。格調の高さは一番と考えるからです。

★発表当時は、「すべての人( all men )」に、先住民、黒人奴隷、女性などは含まれていませんでした。

アメリカ大統領は、就任式で聖書に手を置いて宣誓しますが、独立宣言にもキリスト教思想の枠組みがみられます。


Ⅱ 違憲立法審査権の確立(最高裁判決、1803)

 もし裁判所が憲法を尊重し、通常のどの立法府の法よりも優位にあるとするならば、憲法こそが事件を規定しなければならない。
 そうであるとすれば、裁判所において憲法最高法規として考慮されるべきであるとの原則に異論を唱える者は、裁判所は憲法を無視して法律のみを考慮すべきであると主張していることになる。
 (中略)
 このような考え方は、政治制度に対する最大の改善と考えられる成文憲法を無に帰さしめるものである。
 
 【歴史学研究会編『世界史史料7』(岩波書店)より】

アメリカ合衆国の歴史の中で、連邦最高裁判所が果たしてきた役割は、非常に大きなものがありました。連邦最高裁判所の判決は、憲法を土台として「合衆国の統一性」を担保する役割を果たしてきたと言えます。


Ⅲ 先住民の族長サゴイェワッタの主張(1805)

 兄弟よ、われわれに言うことを聞いてください。かつて、われわれの祖先がこの巨大な島を独占していた時がありました。その生活の場は、太陽の昇るところから沈むところまで広がっていました。偉大なる精霊は、この島をインディアンたちが使えるように作ってくれたのです。
 (中略)
 しかし、忌まわしい日が訪れました。あなたがたの先祖が巨大な海を横切り、この島に上陸したのです。彼らはわれわれにこう言ったのです。自分たちは邪悪な人々を逃れ、自国を逃れてきた、そして自分たちの宗教を自由に信仰するためにここに来たのだ、と。彼らはささやかな居場所を求めました。われわれは彼らを哀れに思い、その要求を認め、われわれの中に受け入れることにしたのです。われわれは彼らに肉とトウモロコシを与えました。彼らは、その返礼にわれわれに毒を盛ったのです。
 (中略)
 あなた方の宗教はあなた方の先祖に与えられ、父から子へと受け継がれてきたものであると、われわれは聞きました。われわれにも、先祖に与えられ、子であるわれわれに伝えられた宗教があります。それは、すべての好意に感謝すること、互いに愛し合うこと、そして団結することを、われわれに教えてくれています。
 (中略)
 兄弟よ! 偉大なる精霊はわれわれみなを作りました。しかし、われわれに異なる肌の色と異なる習慣を与えました。ほかのことに関しても、精霊はわれわれの間に大きな違いを与えたのですから、このように結論すべきではないでしょうか。精霊は、われわれの理解に応じて、それぞれ別の宗教を与えたのだと。偉大なる精霊は、正しいことをします。精霊は、自分の子どもたちにとって何が最良か、知っているのです。
 兄弟よ! われわれは、あなた方の宗教を破壊したくないし、奪いたくもありません。ただわれわれの宗教を信じていたいだけなのです。
 
 【上岡伸雄編著『名演説で学ぶアメリカの歴史』(研究社)より。一部表現を改めました。】

キリスト教への改宗を勧める、ボストンから来た宣教師に対して、サゴイェワッタがおこなったスピーチです。

★文中の「毒」は、アルコールや疫病を指すと考えられています。 

★サゴイェワッタ(1758?〜1830)はセネカ族の族長で、通称レッド・ジャケットと呼ばれれていたそうです。当時、先住民約100万人が暮らしており、500ほどの部族に分かれていました。

★サゴイェワッタは、白人との友好・共存を望んでいました。19世紀初めに、「多様性」をこそ尊重すべきと考えていたのです。

★サゴイェワッタが亡くなった1830年は、「インディアン強制移住法」が制定された年でした。この時の大統領ジャクソンは、1817年、フロリダの「インディアン」の掃討作戦を行った人物です。


Ⅳ オサリヴァン「併合論」(1845)

 テキサスは今やわれわれのものである。
 (中略)
 諸外国は、われわれに敵対的な干渉の精神をもって、われわれの政策を妨害し、われわれの力を挫き、われわれの広大さに制限をつけている。年ごとに増加する何百万もの人口の自由な発展のために、神意によって与えられたこの大陸。その上をいっぱいに広がっていくのは、われわれの明白な天命であるが、その実現を抑えようとしているのである。
 (中略)
 テキサスは、われわれの人口を西へ西へと押し流している一般法則の必然的貫徹の結果として、連邦に吸収されたのである。
 (中略)
 おそらくカリフォルニアも、メキシコのような国にみられる、緩やかな結合から離れることになるだろう。カリフォルニアの境界地帯には、すでにアングロサクソンが足を踏み入れている。その人口はたちまちカリフォルニアをを実際に占拠することになるだろうが、それに対してメキシコが支配を夢見てもむなしいことであろう。
 
 【歴史学研究会編『世界史史料7』(岩波書店)より。一部表現を改めています。】

★ジョン・L・オサリヴァンは、弁護士でジャーナリスト。熱心なジャクソン派民主党員でした。史料は、テキサス併合の年の雑誌論文の一部です。この雑誌の名は、皮肉なことに、「デモクラティック・レヴュー」でした。

★翌年(1846)アメリカ=メキシコ戦争が起こり、アメリカはカリフォルニアからニューメキシコまでの広大な地域を獲得しました(1848)。

★あまり言われませんが、メキシコは、テキサスを含め、独立時(1821)の領土の半分以上を失ったのでした。

★なお、アメリカ=メキシコ戦争に軍人として参加していたのが、ペリーです。


Ⅴ F.ダグラス「奴隷にとって7月4日とは何か?」(1852)

 私は全身全霊で、ためらうことなく、この国の特質と行動は、7月4日には格別に邪悪に響く、と申し上げましょう! 
 過去の宣言を見ても、今日の言明を見ても、この国の行為はおぞましく忌まわしいものです。アメリカは過去に対し、現在に対し、偽りの行動をとり、そして未来に対して、偽りへ向かうと厳粛にも誓っているのです。きょうのこの特別な日に、神ととともに、押しつぶされ血を流す奴隷とともに立ちながら、踏みにじられた人々の名のもとに、足枷をはめられた自由の名のもとに、無視され踏みつけられた憲法と聖書の名のもとに、強調してもし過ぎることのない奴隷制度−アメリカの大罪、アメリカの恥−を恒久化するすべてを問いただし、弾劾します。
 (中略)
 神の天蓋の下にいて、奴隷制度が間違いだということを知らぬ者はいません。
 自由を奪うのは、賃金を与えずに働かせるのは、仲間との連絡をさせないのは、棒で殴り、身体を鞭打ち、手足に鉄の錘をつけ、犬に追跡させ、奴隷市場で売買し、家族を引き裂き、殴って歯を折り、火傷を負わせ、飢えさせて主人に従順になるよう強いるのは、間違っている、と論じなければならないのですか。このように血塗られ汚れに満ちた制度が、間違っていると論じなければならないのですか。まさか!
 
 【荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』(岩波文庫)より。一部表現を改めています。】

フレデリック・ダグラス(1817〜95)は、奴隷として生まれましたが、20歳の時に逃亡に成功し、以後奴隷解放運動の論客として活動しました。史料は、ニューヨーク州ロチェスターで行われたスピーチです。

★約160年前のアメリカ合衆国の状況がよくわかります。キング牧師たちの運動の背後には、真の自由・平等を求める、長い闘いの歴史があったのでした。

 

総合 【哲学? 混沌? プロタゴラス的な「折々のことば」(鷲田清一)】

タレスが「万物の根源(アルケー)は水である」と語ってから、二千数百年。哲学は、ずっと世界の原理を明らかにしようとしてきたと思います。世界を貫いているロゴスを探求してきたと思います。

★しかし、今、ロゴスとアルケーの探求を、哲学は科学に譲ったかのようです。ビッグバンという始原や生命活動の根源を解明しようとしているのは、科学だからです。宇宙や生命が数式によって解き明かされるとしたら、ピタゴラスは正しかったことになるのでしょうか? また、魂さえも物質の世界のロゴスであるならば、デモクリトスエピクロスは正しかったことになるでしょうか?

★このようなことをとりとめもなく考えるのは、哲学者・鷲田清一の「折々のことば」(朝日新聞連載)に、とまどいを感じ続けているせいかも知れません。

★「折々のことば」は、鷲田・臨床哲学の集大成なのでしょう。しかしそれは、臨床哲学の末路にも見えるのです。「折々のことば」と巷にあふれかえる人生論との違いは、どこにあるのでしょうか?

★「こんな見方がありますよ」、「でも、こういう考え方もあるんですよ」と、「折々のことば」は今後も続いていくのでしょう。まるで「万物の尺度は人間(各個人)」というプロタゴラスの考えを証明するかのように。でもそれは、漂流する私たちを映しているのでもありますが。

★やはり二千数百年前に生きたブッダも、哲学者であったと思います。ただ、ギリシアの哲学者たちと違って、彼は、始原(アルケー)を求めないという点で、徹底していました。彼は真理=ダルマ(法)を理解したのですが、絶えず移りゆく現実そのものにダルマ(法)を観ました。現代風に言えば、世界のうちにある、無数の関係性とその変転をそのままに認識したと言っていいと思います。このロゴス(と言っていいかどうかわかりませんが)は、のちに、後継者たちによって「空」と言い表されました。

★「折々のことば」のような、関係性・複数性へと多様に分解した「哲学」は、ブッダ的なものへの、ぼんやりとした回帰なのかも知れません。でも、ダルマ(法)という徹底性は欠いています。そこで求められるのは、もはや「世界の原理」やロゴスではありません。それは、断念されています。求められるのは、結局、多様性を理解したうえでの「心の整理のしかた」になっていかざるをえません。

★その点で、『美術手帖』2016年11月号は興味深いものでした。「ZEN」(「拡張された禅」という意味で使われていました)が特集されていて驚いたのですが、今人々が求めているものがよく表れていたと思います。「穏やかで、安定して、美しく、シンプル」な心の状態が「ZEN」とされているのでした(サンフランシスコ禅センターのことば)。

★このような「ZEN」はよく理解できますし、それを求める気持ちは私の中にもあります。ただ、ロゴスの探求は放棄されていいのでしょうか? ブッダのダルマや「ZEN」を、社会や歴史のロゴスの探求へとつなぐ道はないのでしょうか?

★私たちは、歴史に翻弄され続けています。世界はますます混沌とし、現実は苛烈さを増していくように思われます。世界情勢も日本の社会も、ピタゴラスが言ったハルモニア(調和)にはほど遠いのです。それを、個々人が「ZEN」で乗り切るしかないとすれば、哲学は死んだも同然なのですが……。

※関連テーマ➡【イオニアの海辺で、哲学が生まれた】

総合 【 どう考えるべきか、「トランプ大統領」 】

アメリカ大統領選挙[2016/11/8]におけるトランプ勝利は、世界に大きな衝撃を与えました。

◆世界史を学んできた者としてこの事態をどう受けとめればいいのか、いろいろ考えさせられました。

◆これから述べるのは、結果判明から5日という時点での、暫定的な、いくつかの視点です。素人の不十分な分析であることは承知していますが、お読みいただければありがたいです。

◆経済上の視点は省いてありますので、若干述べます。インフラ整備は支持されるでしょう(かつてオバマが提案し共和党が反対したことですが)。減税は、労働者層よりも、大企業と富裕層に最大の恩恵をもたらすでしょう。ただこれらの政策は、どの程度実行されるのでしょうか? というのは、アメリカ政府の債務は増加している最中だからです。また、輸入品への高関税に本当に舵を切れば、当然物価が上昇し、庶民の生活を圧迫するでしょう。中国をはじめとした新興国経済にも打撃を与えます。


1 人種間の分断なのか

(1)人種による投票行動の違いは、やはりあったようです。CNNの出口調査によれば、人種別の投票先は次の通りでした。

  白人 トランプに投票した人 58%  クリントンに投票した人 37%
  非白人 トランプに投票した人 21%  クリントンに投票した人 74%

(2)同じ出口調査の、人種と性別を組み合わせた投票先は、次の通りです。

  白人男性でトランプに投票した人 63%
  白人女性でトランプに投票した人 53%

 ※Brexitの時と同様、世代間の違いもありました(若者の多くはクリントン支持)。白人有権者の間の教育格差に目を向ける論調もあります。

(3)アメリカ合衆国の人種構成を確認しておかなければなりません。ワシントンポストに載った統計[U.S. Population Projection to 2050]によれば、次の通りです(2015年時点)。ただ、ヒスパニックは本来は人種概念ではないので、注意が必要です。

  白人      62.4%   
  ヒスパニック 17.7%
  黒人      13.8%
  アジア系    5.8%

 ※ヒスパニック系移民への排斥感情を煽るために、「白人は少数派になってしまう」などと言う人たちもいます。ただ、もしそうなるとしても、それはかなり先のことです。この統計によれば、2050年時点で、白人55%、ヒスパニック23%と予想されています。なお、黒人とアジア系は、微増です。

2 投票率はどうだったのか

 驚くべきことですが、まったく報道がありません。

 次のような数字を出しているブログがありました。[harryike.hatenablog.]

  2016  48.6%
  2012  54.9%(オバマ再選の時)
  2008  57.1%(オバマ初当選の時、リーマン・ショックのさなかでした)

 今回は60%ぐらいかと思っていたのですが……。

 棄権した人が多かったということでしょう。選挙中の発言やテレビ討論にうんざりした人も少なくなかったのかも知れません。しかし、トランプ支持者は、もちろん棄権しませんでした。

 この数字に基づけば、全有権者(約2億4500万人)の4分の1弱の支持で大統領が決まったことになります。

3 選挙制度はどうなのか

(1)総得票数では、クリントンがわずかに上回っていました。しかし、このような矛盾が起きないような制度に変えようという動きは、ほとんどないようです、

(2)候補者が各州に割り当てられた選挙人数を獲得して競うというしくみは、1830年代にできました(いわゆるジャクソニアン・デモクラシーの時代です)。それまでは、州議会で選挙人を選ぶというしくみでした。いずれにしても、「わが州はこの候補者を推す」ということを基本にしています。各州の権限を重視してきたアメリカならではの制度なのでしょう。

(3)選挙制度への問いは、「アメリカの民主主義は機能しているのか」という問いにほかなりません。次のような見解もあります。

 「連邦レベルと州レベルで続く政治の機能不全は、アメリカの政治システムに深刻な問題が生じていることを、世界に強く印象づけた。」[スティーブン・ウォルト、「Newsweek日本版」2016.11.15]

(4)莫大な費用をかけた長期間の選挙が、「排外主義、保護主義、女性蔑視」の大統領選出という結果をもたらしたのでした。

 ※中国政府はアメリカ大統領選挙の騒ぎを、冷たく見ていたに違いありません。そして、「民主主義の脆弱性一党独裁の優越性」を、再確認したことでしょう。

4 SNSはどういう役割をしたのか

(1)SNSを活用したのはオバマでした。今回の選挙では、SNSがトランプ陣営に有効に作用したようです。

(2)既成のメディアが軒並みクリントン支持を打ち出したにもかかわらず、白人有権者のかなりの部分は、それに左右されませんでした。影響力を持ったのは、RWN(ライト・ウィング・ニュース)などの右翼系メディアだったようです。[「読売新聞」(2016.11.13)の記事「SNS 悪意の増幅」] 

5 歴史から見ると

(1)トランプ大統領の登場を、ジャクソン大統領(1928選出)の時に似ているとする見方があります。当時の北部・南部のエスタブリッシュメントに対抗して出馬し、独立時の13州以外からの初の大統領となりました。教養に乏しく粗野でしたが、下層大衆の支持を受けたということです。次の文章をご覧ください。

 ○入江昭の論文[「世界」2016.12月号、投票日前に書かれたものです]
 ○久保文明のインタビュー[「朝日新聞」2016.11.10]

 ※白人男子普通選挙が実現したのは、この時代でした。一方、「インディアン強制移住法」も、ジャクソンの時代です。

 ※ポピュリズムとも関連しますが、今回の選挙に「エリートへの反発」という面があったことは否定できないでしょう。オバマは演説は上手でしたが、庶民的な大統領とは言えませんでした。ヒラリー・クリントンも、もちろんエリートです。

(2)1920年代、移民への風当たりが強くなりました。1924年の移民法は、東欧・南欧からの移民を厳しく制限し、アジアからの移民は全面禁止としました。「WASP中心のアメリカ」を守ろうとする動きでした。90年後の同じような風潮ということだと思います。しかし、「WASP中心のアメリカ」はすでに過去のものです。トランプがメキシコ国境の壁を延長するとき、アメリカの何を守ろうとするのでしょうか? 

(3)今後、選挙中に分裂した共和党がどうなっていくのか、敗れた民主党はどう立て直しを図るのか、伝統的な二大政党制に変化はないのか(今回もリバタリアン党緑の党が候補者を立てていました)、注目されるところです。 

6 ヨーロッパへの影響はあるのか

 「トランプ現象」のうねりは、ヨーロッパにも影響を与えるというのが、大方の見方です。

 年末から来年にかけて、つぎのような選挙が予定されています。

  12月初め オーストリア大統領選挙
  3月   オランダ総選挙
  4月末頃 フランス大統領選挙
  秋    ドイツ連邦議会選挙

 ※フランスの国民戦線・ルペンについては報道されていますが、半月後のオーストリア大統領選挙のことはほとんど報道されていません。これはやり直しとなった選挙で、自由党のホーファが当選すれば、EU全体に大きな影響を与えます。彼は「南部の国境に壁をつくって移民を入れない」と述べているからです。

 ※フランス、イタリア、ドイツなどの、移民反対・EU離脱を主張する政党は、選挙中からトランプ陣営と接触を重ねてきているようです。

 ※もし、インナー6の一角で変動があれば、Brexit以上の激震となります。EUは再編を免れないでしょう。

 ※東欧の保守化(ハンガリーポーランドなど)も心配されます。

7 日本の安全保障政策に影響はあるのか

 まだ不確定な部分は多いと思いますが、影響が出てくると思います。

 大転換が起こらないとも限りません。日本の防衛力の飛躍的増強を望む人たちは「渡りに船」と考えているはずです。


◆反トランプ・デモが続いていますが、アメリカ社会の分断は深まっているのでしょうか? 「南北戦争以来の分断」という悲観的見方もあります。

◆トランプの具体的な政策が修正される可能性はあるのでしょうか? アメリカ社会全体の底力に期待しています。
 

古代 南アジア【仏教を多角的にみる:シッダールタの生涯】

■今回載せるのは、現在、あるカルチャーセンターでおこなっている<歴史からみる仏教>(全6回)の1回目のレジュメです。

■レジュメですので、流れがわかりにくいかもしれません。流れを理解しやすくするために、授業の意図などの解説(*がついている部分)を加えてあります。90分の授業のレジュメです。

■多分、*がついている解説部分に、本授業の特徴が表れていると思います。

■なお、一応お断りしておきますが、仏教者になりかわって教えを祖述するという授業ではありません。ねらいは、あくまで「多角的な仏教理解」です。

■世界史や倫理の仏教の授業に役立てていただければ、ありがたいです。



<歴史からみる仏教:シッダールタの生涯>

◆講座の目標

 仏教を歴史の中で多角的に理解しながら、「現代の私たちにとっての仏教の意義」を考えたいと思います。

◆まず、次のことを知っておきましょう。

 ①仏教は、世界の三大宗教の一つ

 ②仏教はインドで生まれたが、現在のインドで仏教徒は少数

  ヒンドゥー教  80.5%
  イスラーム協 13.4%
  キリスト教 2.3%
  シク教 1.9%
  仏教 0.8%     [2001年の統計]

*インドでは13世紀初めに仏教が消滅したとされていますが、この歴史をあとで考えることになります。

 ③仏教は、ヨーロッパやアメリカでも関心を持たれている

  たとえば
   
   ◇ドイツの作家ヘルマン・ヘッセ[小説『シッダールタ』]
   ◇アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス[講演集『七つの夜』
   ◇サンフランシスコの禅センターの活動

  ※仏教は
    英語ではブッディズム Buddhism
   仏教徒
    英語ではブッディスト Buddhist

*最初から、視野を広げてもらうことを意図しています。私たちは、どちらかというと<惰性態の仏教>の中で生きています。そのため、<惰性態の仏教知識>で教えがちです。それを多少変えたいと思っています。

*ヘッセの『シッダールタ』は一読の価値があります。ヘッセは、20世紀の初めに、深く仏教に学び、苦闘しながら、仏教をもキリスト教をも越えようとしました。(草思社文庫の岡田朝雄訳がよいと思います。)


1 古代インドの宗教の流れ

(1)別紙資料[自作プリント]

(2)仏教はそれまでのバラモン教を批判しながら

   紀元前500年ごろ成立

   創始者ブッダ
    本名 ガウタマ・シッダールタゴータマ・シッダッタ

     ①ブッダ=真理にめざめた者
     ②シャーキャムニとも呼ばれた(=シャーキャ族の聖者)

    ①②の尊称が中国に伝わり、漢字で表された
     ① → 佛陀(仏陀
     ② → 釈迦牟尼(釈迦)

*「ガウタマ〜」はサンスクリット語、「ゴータマ〜」はパーリ語になりますが、そこまでは触れませんでした。なお、「佛」という漢字の意味には触れています。

(3)ブッダの死後、20ぐらいのグループに分かれた(部派仏教)

   その中から、上座部仏教大乗仏教が成立
    (大乗仏教は、1〜4世紀に成立)

*最近の研究は、大乗仏教の成立に幅を持たせています。


2 シッダールタの生涯

(1)歴史的事実

  ◆ルンビニー(現在のネパール南部)で生まれた

    父 国王シュッドーダナ
    母 マーヤー(出産後7日で死去)

  ◆16歳のころ、ヤショーダラと結婚
     やがて、息子ラーフラ誕生

  ◆29歳の時、修行者になった
     6年間の修行(断食など)

  ◆35歳の時、ブッダガヤの菩提樹の下で悟りをひらいた(=ブッダとなった)
      ↓
     サールナートで、5人の修行者に最初の説法(初転法輪

  ◆80歳の時、クシナガラで死去

ブッダの布教範囲は、インド北東部のガンジス川下流域です。政治・経済・思想上の先進地でした。のちのマウリヤ朝グプタ朝の都も、この地域におかれました。ナーランダー僧院も同じです。

*あとで取り上げるガンダーラ地方は、仏教が成立した地域からは、地理的にも政治的にも文化的にも離れていたという事実を、理解しておかねばなりません。仏像制作の始まりで知られるガンダーラ地方とその周辺は、イラン系クシャーナ朝の領域でした。この地域では、仏教、ゾロアスター教、ヘレニズム文化などが混在していたのです。


(2)伝説

  ◆誕生の時の伝説

  ◆「四門出遊」の伝説

  ◆苦行の時の伝説

*一応誕生日(4月8日)にも触れています。クリスマスを祝ってもお釈迦様の誕生日はほとんど忘れてしまった日本人の現状に気づいてもらうためです。

*「四門出遊」の話は、ボルヘスの美しい文章(『七つの夜』所収)を読み上げました。ブッダの生涯について書かれたものの中で、最も美しい文章だと思います。

*苦行の時の伝説では、スジャータに触れています。

*歴史の授業でなぜ伝説を取り上げるのでしょうか? 歴史的事実とは区別しながら、伝説を生み出した人々の心情を理解するためです。


※講座の2回目では、ブッダのことばも紹介しながら、ブッダの思想について考えています。

<問いからつくる世界史の授業[資料]>(現代)【ハンガリー事件】

★1956年のハンガリー事件は、たいへん重要な出来事でした。この時のハンガリー政府の改革は、ソ連に鎮圧されたとは言え、1989年の東欧社会主義政権崩壊の先駆をなしました。それだけでなく、ハンガリー人にとっては、1848年のハンガリー革命を継承するものでもあったのです。

★非常に悲惨な事件でもありました。ソ連軍との戦闘で多数のハンガリー人が亡くなり、ハンガリーからの亡命は20万人に及んだと言われています。さらに、改革の中心だった首相ナジ=イムレは、1958年に、ソ連によって処刑されたのでした。ナジの名誉回復がなされたのは、1989年でした。

ハンガリー事件は、当然のことながら世界史Bの教科書でも取り上げられています。ただ、実教出版帝国書院の教科書の記述は、あまりに簡単です。また、どちらの教科書も「暴動」という語を使用しており、ハンガリー事件の歴史的事実を正しく伝えていません(まるでソ連側に立ったような、語の使い方になっています)。

★今回は、資料問題です。近年は目にしない資料だと思います。生徒たちにとっては、第二次世界大戦後の東欧社会主義体制を考えるきっかけになるのではないでしょうか。


≪問題≫

 次の資料A〜Cを読み、あとの問いに答えよ。

 5 われわれは、新しい国民議会を選ぶために、一般、秘密、かつ多数の政党が参加する投票によって、総選挙を全国で実施するよう要求する。
  12 われわれは、意見と表現の自由および新聞と放送の自由の完全な承認を要求する。
  13 われわれは、スターリン的圧政および政治的抑圧の象徴であるスターリン像をできるだけ早く除去し、その代わりに1848〜49年の自由の戦士ならびに殉教者のための記念碑を建てることを要求する。
  【工科大学学生集会決議、1956年10月22日】

B 国民、政府は、国民および歴史に対する責任を痛感し、かつ幾百万の一致した意思を確信し、人民共和国の中立を宣言する。国民は独立と平等の精神のもと、国連憲章の精神にしたがって、その隣人たち、ソ連および世界のすべての国民と真の友好を保つことを希求する。わが国民はいずれの勢力圏にも入ることなく、その民族革命によって獲得された成果を強固にし、発展させることを望んでいる。
  【首相ナジ・イムレの宣言、同年11月1日】

C ソ連の犯罪者はわれわれを裏切った。ソ連軍は、首都および全国を、突然攻撃した。私は、首相ナジ=イムレの名において申し上げる。彼は援助を願っている。政府および全国民は援助を願っている!
  【一編集者のAP通信社ウィーン支局あての打電、同年11月4日】

 ※問題作成上、国名・首都名は割愛した。[笹本駿二・加藤雅彦編『ドキュメント現代史10・東欧の動乱』(平凡社、1973)より]

問 資料A〜Cの出来事が起きた年と国の組み合わせとして正しいものを、下の①〜⑨のうちから一つ選べ。

 ① 1956年、ポーランド
 ② 1968年、ポーランド
 ③ 1989年、ポーランド
 ④ 1956年、チェコスロヴァキア
 ⑤ 1968年、チェコスロヴァキア
 ⑥ 1989年、チェコスロヴァキア
 ⑦ 1956年、ハンガリー
 ⑧ 1968年、ハンガリー
 ⑨ 1989年、ハンガリー


【 答 】 ⑦


◆Aの資料は、ブダペスト工科大学の学生たちの宣言です。全部で16項目からなり、ハンガリー民主化に向けた、最初の明確な動きでした。

◆生徒たちは、一般に東ヨーロッパの歴史についての関心が薄く、地理的知識も乏しい場合が少なくありません。中世ヨーロッパ史の東ヨーロッパの学習から強化する必要があります。

◆なお、他のテーマでも述べましたが、教科書ではビザンツ帝国史に付随したような構成になっていることもあり、生徒たちは西スラヴ人マジャール人についてなかなか理解しにくいようです。オーストリアを含め、「中央ヨーロッパ」という枠組みで取り上げたほうがよいと思います。

◆参考までに補足しますと、ソ連軍が侵入してきた時、ハンガリーの国民の間には「アメリカが助けに来てくれるはず」という期待があったとも伝えられています。
1999年、ハンガリーチェコポーランドNATOに加盟しました(スロヴァキアは2004年)。現在のロシアの立ち位置を含め、いろいろなことを考えさせられます。

近代 ヨーロッパ 【<フランス革命>の授業のために】

■戦後しばらくの間、フランス革命は、世界史の中で大きな位置を占めていました。多くの学者が、フランス革命を典型的な市民革命(ブルジョワ革命)と見ていたからです。現在からみれば、そこには、やはり「ヨーロッパ中心史観」があったと思われます。日本史の方々も、そのような見方にとらわれていて、明治維新フランス革命に比べて「不十分なブルジョワ革命」と考えていたのです。

■また、新たなフランス革命史研究(心性や革命祭典が注目されました)が、フランス革命200周年に向けた時期に盛んになりました。政治・経済史ではなく、心性を組み込んだ総合史を目指した点で、その研究成果は今も色あせていないと思います。

■しかし、現在はどうでしょうか? 一時は資料集に革命祭典の絵なども載っていたのですが、今はあまり見なくなりました。ジャコバン独裁という「劇薬」を肯定することができなかったためもあるでしょう、フランス革命は相対化されました。広く国民国家形成史の中に位置付けられるようになったと言ってもいいと思います。

フランス革命の相対化は、当然の流れであったでしょう。ただ、その結果、高校の授業では、フランス革命をとらえる視点が不確かになったのではないでしょうか? 革命のダイナミズムをとらえ切れずに事件の羅列と化す傾向も出て来ているのではないでしょうか?

フランス革命についてはたくさんの論点があり、しかも錯綜しています。そこで今回は、「現代までのパースペクティヴを持った授業」という観点から、2つにしぼって述べたいと思います。

1 19世紀までの長いスパンでフランス革命を考える。

フランス革命単独や「フランス革命とナポレオン」という枠組みでは考えないことが大切だと思います。「19世紀末の共和政確定までの試行錯誤の始まり」と考えたほうが適切ですし、そのほうがフランス近代史全体を理解しやすくなります。

◆三色旗を国旗として制定したのも、「ラ・マルセイエーズ」を国歌として制定したのも、19世紀末の第三共和政期です。

「試行錯誤」という語に、否定的な意味は含めていません。フランク王国成立からフランス革命まで1,300年、カペー朝成立から数えても800年の歳月が流れています。王政や帝政を望むのも、当然だったでしょう。しかし、たくさんの血を流しながらも、フランス人は自力で第三共和政を選択したのです。フランス革命以後の100年を、フランス人の苦闘の歴史として伝えたいと考えています。

なお、日本人は一般に(今の高校生も同じです)、「共和政」という語になじみがありません。そのため、世界史における政体の理解が不十分になりがちです。それを避けるため、まずローマ史で徹底して教え、クロムウェル独裁期の授業で復習させています。

2 「自由・平等・友愛」という標語を取り上げ、現代の課題とリンクさせる。

フランス革命以後の100年を理解しようとする時、この標語は重要なものだと思います。しかし、なぜか軽んじられています。また残念ながら、この標語が「世界人権宣言」に使われたことも、忘れられています。

◆この標語の理解の中で、「自由の女神」について伝えることもできます。「自由の女神」という表象がアメリカで生まれたと誤解している生徒もいますので。

◇以前、ピンチヒッターで、ある進学校の3年生の授業を秋から担当したことがありました。その時、私は愕然としました。生徒たちのだれもこの標語を知らなかったからです。
 しかし、それは、私たちの世代の反応に過ぎなかったのでしょう。教科書にも資料集にも用語集にも、この標語は載っていないのです。その理由はよくわかりませんが、「友愛」の扱いの難しさによるのかも知れません。

◆したがって、授業でこの標語を取り上げるということは、結構チャレンジングなことになります。

◆「自由・平等」は、啓蒙思想の果実ともいうべきことばで、「フランス人権宣言」で使用されています。もちろん、「アメリカ独立宣言」でも使われていました。

◆では、「友愛」は? 「友愛」という語は、革命当初からではなく、1793年から使われたということです。激動の連続の中で、「自由・平等」だけでは不十分と考えられたのでしょう。また、1793年は、ジャコバン政権のもとで「非キリスト教化」が頂点に達した時期でもありました。キリスト教の道徳に代わる徳目として掲げられたのだと考えられます。

フランス革命における「非キリスト教化」の試み=キリスト教的世界観からの脱却という文脈は重要だと思います。その文脈から、革命暦メートル法も理解できます。ナポレオン以降揺り戻しがありますが、キリスト教をめぐる議論は、20世紀初頭の「政教分離」(ライシテ)で一応の決着を見たのでした。(この歴史を踏まえて、20世紀後半の「スカーフ論争」も、現在の「ブルキニ論争」も考えなければなりません。)

◆1と関連しますが、この3つの語は19世紀を通じて定着しました。そして、フランス共和国の標語となりました。フランス革命の精神と同時にフランス革命以来の苦闘の歴史が、この標語に表れているのです。現在も、この標語は、フランスの公共施設に掲げられていますし、フランスで製造できるユーロ・コインにも刻まれています。

◆「標語は男性中心」という批判もあります。フランス革命中にグージュが現れたにもかかわらず、フランスにおける女性参政権の実現は1944年でした。また、第三共和政以降のフランスも帝国主義国家であったことは、まぎれもない事実です。 

◆「理想と現実」というタームに逃げ込むことは容易ですが、カントの『永遠平和のために』を無視することができないように、「自由、平等、友愛」を冷笑することはできないでしょう。第二次世界大戦直後、「自由、平等、友愛」は、「世界人権宣言」(1948年)の第1条に盛り込まれました。これらの語は、一定の普遍性を持つようになったのです。

◆シリア内戦(奇しくもシリアは第一次世界大戦後フランスが支配したところでした)をはじめ、世界は今もなお多くの苦難と矛盾に満ちています。

◆多分、フランス革命は未完なのです。

自由や平等や理性は、フランス革命中から女神として表現されました。それぞれが女性名詞だっただけでなく、「父なる国王」に対抗する意味があったとも言われます。「自由の女神」という表象が確定するのは、七月革命期になります。生徒たちには、ドラクロワの「民衆をみちびく自由の女神」を、まずフランス革命の授業で見てもらいます。19世紀まで視野に入れてもらうというねらいもあります。

「フラテルニテ」の訳語として「博愛」を使うのは、適切ではありません。「博愛」という語には、キリスト教的な慈善の意味が含まれています(明治時代からの訳語です)。しかし、「フラテルニテ」は「非キリスト教化」の流れの中で登場した語なのです。